3月10日礼拝説教 「安息日の主」

                    2013年3月10日

聖書=ルカ福音書6章1-5節

安息日の主

 

 安息日を巡って2つの論争が記されています。2つ続いて記されている安息日論争は同じことの繰り返しか。少し違うと言っていい。本日取り扱う箇所は具体的には安息日律法を取り扱っているが、基本的には律法そのものについての主イエスの理解が語られているのです。私たちの教会では礼拝の中で十戒を朗読しています。信仰者の生活を導く指針として朗読しているのですが、注意しないといけないことがある。日本人はユダヤ人と似ている国民性を持っていると言われている。律儀さ、一途さです。こうと思い込んだら後先見ずに決めつけてしまうところがある。ゆとりを持って多方面から考えてみることをしないと、私たちもファリサイ派と同じ誤りを犯す危険性がある。このことを念頭に置いてお聞きいただきたい。

 「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた」。ガリラヤの晩春、麦の穂がつやつやと色づいている。マタイ福音書では「弟子たちは空腹であった」と記す。主イエスにとり安息日は忙しい日です。会堂で説教し、午後からも集まってくる人たちを教える。安息日は食事する暇もなかった。主イエスと一行は疲れ空腹であった。弟子たちは空腹を覚えて小麦の穂をつまんで折り、手の中に入れて揉んでフッと殻を吹き飛ばし、手元に残った小麦の粒を口の中に入れたのでしょう。私も子供の頃は農家で育ったのでよく経験しました。青臭い香りと甘い小麦の汁が口一杯広がり、一時の飢えがしのげたでしょう。これが安息日以外の日であったら何の問題にもならなかった。しかし、イエスを監視していたファリサイ派の人はこの出来事を見つけて詰問します。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と。

 ここで注意していただきたい。「なぜ、あなたたちは他人の畑のものを盗むのか」と言われていないことです。日本だとそうなるでしょう。ところがユダヤ社会では許されていた。申命記23章に「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と記されている。イスラエル共同体の隣人愛の規定で、貧しい人、飢えている人に対する配慮の規定です。弟子たちが穂を摘んだことが安息日以外の日であったら問題になりません。

 その日が安息日であった。そのためファリサイ派の人たちから咎められた。安息日は神の創造に由来するもので仕事を休んで神を礼拝する日として定められた。ところがユダヤ社会では神礼拝という方向よりも「いかなる仕事もしてはならない」というネガティブな方向でこの規定が理解されるようになった。弟子たちが小麦の穂を折り取って、手でこすり、殻を吹く飛ばすことが立派な農作業と見なされ、そのようにして食べたことは食事の用意をしたことになる。今日、私たち笑いだしてしまうほど滑稽なことに思うが、ファリサイ派の人たちには真剣なことでした。律法の規定を落ち度なく守るという一途さ、生真面目さが産み出したことです。規定を落ち度なく守ることに熱心のあまり、その律法が与えられた本来の意味を受け止める柔軟さを失ってしまっていた。本末を転倒し規定に縛られて総合的な判断が出来なくなり、神の御心が判らなくなっていたのです。

 主イエスはこの硬直化した律法理解を批判された。ダビデの生涯に起こった出来事を示して注意を促されたのです。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」。サムエル記上21章1-6節に記されている出来事です。ダビデはサウル王の怒りと迫害を逃れてノブの地にやって来た。急な逃亡であったため食料の用意も武器の用意もなかった。そこに祭司アヒメレクがいた。ダビデは祭司アヒメレクにパンを分けてくれるように頼んだ。しかしアヒメレクも貧しかったのでしょう。普通のパンはなかった。ただ、神に捧げられた聖別されたパンがあった。祭司は神に安息日毎に新しいパンを捧げる。そのパンは神に聖別したものですから祭司とその子らが食べることが許されていた。その時、祭司アヒメレクは彼らがしばらく女に接していないということで彼らを「聖である」と認定して、供えのパンを渡してやった。ダビデ一行はこのパンによって力を受けて、それからの長い逃亡生活に入っていくことになるのです。

 この出来事はどう考えても律法破りです。ダビデもその従者たちも祭司ではないしレビ族でもない。しかし、律法に精通しているファリサイ派もこのダビデの出来事は是認しています。この出来事は律法についての基本的な理解を教えています。それは、律法は基本的に人が生きるために与えられていることです。律法を与えられたのは神です。神は律法を人を殺すためではなく人を活かすために与えられているのです。マルコ福音書では「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と記しています。規則のために人間があるのではない。

 最後に主イエスはこう言われます。「人の子は安息日の主である」と。キリストが安息日の主、律法の主です。キリストが安息日の律法を定めたお方であり、キリストが安息日の内容であり、目当てであるということです。すべての律法が目差しているのはキリストの安息を得させることです。この視点を見失ってはならないのです。キリストこそ、人間を救い、救いを完成し、私たちを神に結んでくださるただ一人のお方です。安息日はこのキリストとの交わりをする時なのです。