3月3日礼拝説教 「新しい生き方」

                  2013年3月3日

聖書=ルカ福音書5章33-39節

新しい生き方

 

 キリスト教は、どう生きるかということを真剣に考える信仰です。主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。するとファリサイ派の人たちから反発が出た。「自分たちこそ罪深さを認めて一生懸命断食と祈りに励んでいる。ところがキリストの弟子たちは宴会を開いて飲み食いしている。キリストの弟子たちには悔い改めなどどこにあるのだ」という思いです。

 ここから断食問答が始まります。質問した人はファリサイ派の人たちの気持ちを代弁しています。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。イエスの弟子はどうも宗教者らしくないということです。ユダヤ人の断食には長い宗教的伝統があります。モーセ律法では断食の日は、年に一日贖罪の日と決められていた。それが時代を経るに従って増え、年4回となり、主イエスの時代には週に2回が断食日とされていた。こんなに頻繁に断食を一般の人が忠実に行うことは出来ません。そのためファリサイ派の人たちは彼ら民衆を「罪人」と呼び、自分たちはこれを厳守していると誇っていたわけです。

 主イエスの伝道活動が始まった時、人々はその活動に注目します。イスラエルの重要な宗教伝統である断食について、主イエスとその仲間たちはどう教え、どうするだろうかと、じっと注目していました。ところが、主イエスは断食についてほとんど教えられない。もちろん、主イエスは弟子たちに享楽的に生きろなどと教えられはしません。しかし、断食を規律として課すようなことはしておられません。

 主イエスはその人の質問に答えて、キリストの弟子たちの生活の特色を3つの例えで教えられました。1つは結婚式、婚礼です。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と言われました。結婚式はまさに喜びの訪れです。しかもそれは共に生きる喜びなのです。花婿が共にいる喜びです。信仰生活とはイエス・キリストが一緒にいてくださる生活です。これこそインマヌエルの喜びなのです。

 信仰生活を修養と勘違いする人たちがおります。修養とは人間を外側から規制し訓練し、高いステップに登ることを目指しています。修養は自分の努力であり己を誇ることにもなります。しかし、キリスト教信仰はイエス・キリストを信じてキリストと共に生きることです。新しい生活であり、喜びを表す生活です。

 次は服に継ぎを当てる例えです。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」。着古した服が綻びたので、新しい服を潰して古着の繕いに当てるようなことをするだろうか、と主は言われる。誰もそんな馬鹿なことはしない。新しい服は駄目になるし、古い服も新しい布で継ぎを当てたら、弱くなっている部分がさらに破れて両方とも駄目にしてしまう。

 ところが信仰生活ではそんな愚かなことが多いのではないでしょうか。日本では和魂洋才という言葉があります。日本人の魂、日本の精神に西洋の科学技術を接着させようということです。キリスト教の基盤の中から成長し成熟してきた思想や哲学、民主主義や法律、議会政治などを、産み出したキリスト教の基盤を取り外して技術的に輸入してうまくやれると考えた。明治以降の日本の失敗がこれであると言っていい。あらゆる所で木に竹を接ぐような和魂洋才式のやり方がなされてきたことが多いのです。

 キリスト教信仰の生活は、継ぎはぎをしてなされるものではありません。徹底的に新しいものとなることが求められているのです。古い着物に継ぎを当てることではなく、古い着物を脱ぎ捨てて、キリストという新しい着物を着ることです。新しい着物を着た者として生活することが求められているのです。確か救世軍の山室軍平だったと思いますが「晴れ着を着て、ドブさらいをすることはないだろう」と言いました。分かりやすい表現です。キリストを着た人は、それにふさわしい生き方をするはずです。

 3番目の例えは、ぶどう酒と革袋の例えです。これも新しい服と古着の例えと同じです。羊や山羊などの皮を丸はぎにして袋にします。それに水やぶどう酒などを入れてラクダに背負わせて旅行します。革袋は新しいうちは弾力性があるが、古くなると失われます。弾力性を失った古い革袋に発酵力ある新しいぶどう酒を入れると張り裂けてしまう。「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」。

 主イエスは弟子たちの信仰生活を絞り立ての発酵力あるぶどう酒に例えています。新しいぶどう酒はフツフツと発酵している。強い生命力があるからです。これをファリサイ派のような伝統的な形式や宗教的な規制でまとめることは出来ません。キリスト教信仰にも革袋は必要です。内容があれば形式はどうでもいいではない。新しいぶどう酒にはそれにふさわしい容器、革袋、ボトルを必要としているのです。新しい信仰を与えられた人は新しい生活の在り方を、置かれている状況の中で産み出していかねばならないのです。私たちの課題は、キリスト者の新しい生活の形が力強く産み出されているかということです。内側から溢れる信仰の力によって、信仰を表現する器を新しく形づくっていかねばならないのです。