2月24日礼拝説教 「医者を必要とするのは誰」

                    2013年2月24日

聖書=ルカ福音書5章27-32節

医者を必要とするのは誰

 

 ここに記されているレビという徴税人は肉体的には少しも病んでいません。健康診断したら「どこにも問題ありませんよ」と言われる。しかし、この人もまた深く病む人でした。病むという点から言えば重い皮膚病の人や中風の人よりも深刻でした。重い皮膚病の人も中風の人も自分が病んでいることに気付いていた。病んでいることに気付けば治りたいという願いも起こる。ところが自分が病んでいることに気付かない人の方が多い。「罪は死に至る病である」と言われます。死に至る病に深く冒されているにもかかわらず、自分は健康だと思い込んでいる。そのため医者の所に来ようともしない。今度は主イエスの方から病める人に近づいてくださいます。主イエスご自身が私たちの生活の中に入って来てくださるのです。

 「その後、イエスは出て行って」と記されている。主イエスご自身が病む人の所に出かけてくださいます。そして「レビという徴税人が収税所に座っている」のをご覧になりました。いつの時代でも税金を取る役人は嫌われます。この時代のユダヤの徴税人は特別でした。税金を取るのはローマ総督の大事な務めです。総督は収税所を設けてユダヤ人に徴税の仕事を請け負わせます。住民の数や通行量によって一定金額を徴税人に請け負わせ、取り立てなければ徴税人が負担しなければなりません。それだけでなく規定以上のものを取りたてなければ自分の儲けになりません。そこであくどくふっかけて厳しく取り立てることになります。

 徴税人はユダヤの富をローマに売り渡す「売国奴、知的強盗」と毛嫌いされ、ユダヤ社会から締め出された。会堂や神殿礼拝からも閉め出されます。遊び人である罪人、遊女などと並んで神の国から遠い者と見なされます。レビがどういう理由で徴税人になったのかは記されていません。お金のためという以外なかった。家が貧しかったのかもしれない。徴税人という仕事は悪辣な仕事ですがお金は儲かる。徴税人になって数年したら倉が建つと言われていた。しかし、レビはお金を儲ければ儲けるほど、人が自分から離れて行くのに気付いた。人の心は金では買えないことに気付き始めた。お金と交換に失ったものの大きさに気付き始めたのです。

 今、多くの人はかつての高度経済成長とバブルの時代に多くのものを失ってきたことに気づきだした。家庭の大切さや子たちにしつけをし、人間にとって何が大切なことかを教えることを見失ってきた。そして日本ではこのような精神的価値の喪失に気付いた時に、その反省として必ず右傾化、復古主義がでてくることに注意なければならない。収税所にぼんやり座っているレビの姿はお金や経済と交換に失ったものの大きさに呆然としている日本人の姿ではないか。主イエスは欠けを覚える人、空虚さを知る人、大切なものを失っているのではないかと考える人のところに来てくださいます。主イエスはレビを見つめて「わたしに従いなさい」と言われた。主イエスがレビを召されたのは、この男は徴税人だから物書きが出来る、書記の役に立つだろうと能力の故ではありません。彼が能力ある者であったからではなく、病む人であり、欠けを覚える人であり、罪人であるからです。主イエスは病む人、欠け多き者、罪人を招かれるお方です。

 主イエスのお言葉にレビは応えました。「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」。レビは一切を捨てた。主イエスのお言葉に応えて、お金も将来も何もかも捨てて立ち上がり、従ったのです。これが信仰の決断です。レビは今までは金を貯めることしか念頭になかった。しかし今は、イエス様のために自由に使うことが出来るようになった。「何もかも捨てる」とは、放り出すことではなく捕らわれから自由になることです。新しい主人となった主イエスのために自分の家を開放した。徴税人仲間も招きました。レビの心は変わったのです。心が大きく開かれた。主イエスと共にある食卓、祝宴のために財産を使うことを惜しまなくなった。今まで自分のためにだけ生きてきた。初めて人のためにお金を用いることの喜びを知った。財を神に捧げる喜びを知った。この盛大な宴会は神の国の姿です。神と人とに仕える生き方を回復したのだと言っていいでしょう。

 ところが批判しつぶやく人たちがいた。ファリサイ派の人と律法学者たちです。彼らは主イエスの弟子たちに言います。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」。冷たいまなざしです。人の喜びを一緒に喜ぶことの出来ない人です。さげすみ、蔑視があります。そこで主イエスはその場にいるすべての人に聞こえるように言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。この主イエスのお言葉は、今日の私たちの心の奥底にも響いてくる言葉です。この御言葉を聞いた時、レビは悟ったのです。そうだその通りだ。自分は今まで病んでいたのだ、自分は罪人であったのだと知った。自分のことだけ、自分の利益だけ、金儲けだけで生きてきた、神のことなどどこかにはじけ飛んでいた。自分の魂は病んでいたのだと悟ったのです。

 神をはじき飛ばすような生き方、神を度外視する生き方、これが病の根源です。そのような病める自分の所に、主イエスの方から訪ねて来てくださった。主イエスは私をいやし、私を招くためにやって来てくださった。主と共に食事するという恵みの中で、自分が招かれているということに深く驚いたのです。主イエスは、今も病んでいる人の所に来られます。自分が深く病んでいることに気付かされ、赦しが与えられ、心が健やかにされて、新しく造り変えられた者として生きることが出来るのです。