2月17日礼拝説教 「罪を赦す権威」

                     2013年2月17日

聖書=ルカ福音書5章17-26節

罪を赦す権威

 

 この個所では、イエスというお方が神である、神と等しいお方であることが、律法学者・ファリサイ派との論争の出来事の中で明らかにされていきます。友人たちに床ごと担がれて連れてこられた中風の人に対して、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。主イエスのお言葉を耳ざとく聞いた人たちがいました。それが「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」です。実は、彼らはイエスを監視に来ていたのです。

この後、ファリサイ派と主イエスの激しい論争が起こるので「ファリサイ派」についてお話ししておく必要があります。ファリサイ派の発生ははっきりしないところがあります。元々はユダヤ教厳格派と言っていい。紀元前67年、ユダヤはハスモン王家による独立を失い、ローマ帝国の属州になり、ローマから総督が派遣されて来ます。このローマの統治に協力したのが祭司階級でした。彼らの生活習慣もしだいにローマナイズしてきます。ここに成立したのが「サドカイ派」です。占領軍であるローマと協力して甘い汁を吸ったのが祭司階級を中心としたサドカイ派です。

 これに猛反発したのがファリサイ派です。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味を持ちます。ローマナイズする時代の流れから分離してユダヤ教正統主義に立つことを強く主張した人々です。そのため一般民衆の圧倒的な支持がありました。福音書では主イエスをやっつける悪役として描かれていますが、実は非常に立派な人たちでした。宗教的には敬虔で真面目に信仰に取り組み、旧約伝統の信仰生活を営もうと願った人たちです。その中から旧約聖書やユダヤ教の律法を厳格に研究し、その律法を生活に適用して民衆に教える人たちが生まれました。それが「律法の教師」「律法学者」と呼ばれる人たちです。

 しかし、ここに問題が生じた。自分たちだけが律法を忠実に守っているという強烈な自己意識です。自分たちだけが律法を正しく解釈し、律法に従って生きているのだといううぬぼれです。そこに生まれたのが律法主義です。律法を厳格に守るために律法の周りにさらに細かな防御壁を築くような細則を作る。本来、律法は神のことばですが、律法を与えられた神の御心を考えるよりも、律法を形式的に守ることが生き甲斐になってしまった。主イエスは、このような律法主義と戦われたのです。

 主イエスは中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われた。直ちに律法学者やファリサイ派の人々が文句を言い始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。理屈と言っていい。しかし、これは正しいことです。「神の他には誰も罪を赦すことは出来ない」。これは旧約の伝統です。すべての罪は、人間同士の罪であっても、罪は罪ですから神に対して犯されたと見なされ、神に対して犯された罪は、神以外には赦すことはできないのです。

 勿論、神に対して犯された罪が赦される道がありました。それが神殿における犠牲のシステムです。罪を犯した人は犠牲の献げ物を持って神殿に来て赦しを求め、神の赦しを受けたのです。それ以外では、神に対して犯された罪を赦す道はありませんでした。まして普通の人間が他人の罪を赦すなどということは神を冒涜することでした。自分を神と等しいと宣言することであったからです。ファリサイ派の人たちの言っていることはまことに正しいのです。決して間違っていません。

 けれど、律法学者やファリサイ派の人々は決定的なことを見抜けなかった。それは、「あなたの罪は赦された」とおっしゃった主イエスが普通の人ではなく、神の独り子、神が人となられたお方であるということです。主イエスもこのことを議論を通して彼らを説得しようとなさいません。これは議論の問題ではなく、事実の問題だからです。主イエスは言われます。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われます。そして、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。

 中風の人にとり思いがけない展開でした。主イエスに言われて、自分の体を眺めてみた。痛みがなくなっている。固くなっていた手足も自由に動く。治った。いやされた。喜びが突き上げてきたと思う。この病人と友人たちも「罪の赦し」という人間の根底に触れるようなことは期待していなかったでしょう。しかし今、彼らは悟った。主イエスというお方は普通の人ではない。インマヌエル、神が共にいます御方であることを、恵みの出来事を経験して理解できた。主イエスは人間的な理屈で測ることの出来ないお方です。この地上で罪を赦すことの出来るただ一人のお方です。

 病のいやしは人間の医者でも出来る。赦しこそ、神だけが出来ることです。主イエスのいやしは医者の業ではなく、罪の赦しのもたらす結果なのです。ここに主イエスの神秘があります。律法学者やファリサイ派の人々は、このキリストの神秘を理解できなかったのです。このキリストの神秘を本当に理解することのできる人は、キリストの恵みの力にあずかった人です。

 中風の人の体がいやされたことは、罪の赦しの確かなしるしです。彼は体をいやしてもらっただけでなく、人間の最も深いところ、罪の赦しと神との平和をいただいたのです。ですから、神賛美に導かれているのです。「神を賛美しながら家に帰って行った」という出来事を生み出したのです。体がいやされるだけでなく、罪が赦され、神との交わりに生きる者とされ、神を賛美する者に変えられた。これがキリストの救いなのです。