2月10日礼拝説教 「その人たちの信仰を見て」

                    2013年2月10日

聖書=ルカ福音書5章17-26節

その人たちの信仰を見て

 

 この箇所はポイントが2つあります。そのため、今週と来週の2回に分けてお話ししたいと思います。私は改革派教会が教派として取り上げねばならない課題が幾つかあると感じています。その1つが障害を持つ方々、とりわけ知的障害を持つ方の洗礼の問題です。各個教会は種々の障害を身に負う方々を迎えてまいりました。この人たちの洗礼を、どう取り扱っていいのか。共通の理解と明確な基準がありません。それらのことを考えるヒントがここにあります。

 主イエスは多くの人の期待に応えて説教し病気をいやしておられました。今、主イエスがおられる家の中は一杯でした。そこへ「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした」。おそらく友だちはイエス様が来て病気をいやしておられると聞いた。中風の人の家に走って行き、彼を床のまま担いで来た。福音を聞くためというよりも、彼の病気をいやしてほしいという一心からです。いわば苦しい時の神頼みと言っていいでしょう。

 人が宗教を求める時、多くの場合、何らかの問題を抱えています。精神的な問題、家庭の問題、健康の問題など種々です。そのようなこの世的な難題を抱えて、その解決を教会に、主イエスに求めるのは不純だというような想いが教会にもあるし、ご本人にもあるのではないか。しかし、聖書ではここまでは体の問題、ここからは霊的な問題などと分けて考えてはいません。人間全体が神の前に立つことが求められているのです。病んでいるまま、問題を抱えているままで、率直に神を求めていいのです。真剣に神に助けを求める者たちの願いを、主イエスは聞いてくださいます。

 家の戸口まで来た時、大勢の人で主イエスの前にまで進めません。彼らが来た時が遅かったからです。戸口まで群衆で埋まっていた。これは極めて象徴的な出来事です。私たちはキリストの所にいつでも行けるんだとタカをくくってはならない。キリストの言葉などいつでも聞けるんだと油断してはならない。神の言葉を聴き、キリストに出会うことは、厳しい時の制約を受けていることを自覚しなければならないのです。

 しかし、この人たちはそのまま引き返さなかったことに驚かされる。道が一度閉ざされるとあきらめてしまう。この人たちはあきらめません。「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」。非常手段を取った。当時のパレスチナの家は屋根が平らで、瓦も日本の屋根瓦とは違う。木材の梁の上に木の枝などを渡して土を盛って固めただけです。容易に剥がすことが出来た。と言っても屋根を剥がすなどは常識では考えられない。彼らは中風の人を助けるために常識を越えて行動した。常識は大切にしなければならないが、人の救いにかかわる時、切実な必要のある時、常識を越えることも必要です。真剣に取り組んだ。「この機会を失ってはならない」という熱意が行わせた。私たちも屋根を剥ぐくらいの熱意をもって隣人の救いのために祈り奉仕したい。

 その主イエスの前に病める人は床ごと吊り降ろされました。病人の切なる願いは「起きて歩けるようになる」ことでした。そのために友人たちは彼を運んできた。彼らの期待していたことはこの人の体がいやされることでした。しかし、主イエスは「その人たちの信仰を見た」と記されます。主イエスは「その人たちの信仰を見た」のです。「その人たち」とは、病人自身と特に連れてきた友人たちの信仰を見たということです。では、主イエスがご覧になった「彼らの信仰」とはどんなものだったのでしょう。今日、私たちは牧師から懇切に信仰の手引きをしてもらい、信仰の教理を学び、誓約をして「信仰」と認められます。しかし、ここではそのようなものではなかった。今日、私たちが聖書によってかなり厳密に信仰の対象、信仰の内容などについて教えられて信じるようなものではなかった。

 「彼らの信仰」と言えるものの1つは、主イエスに対する熱い期待であったと言うことが出来る。主イエスは悪霊を追い出し、病をいやす神のごとき力を持つお方であるという信仰です。主はいやす力を持つお方であるという期待と確信です。主イエス・キリストの力への期待と確信です。キリスト教信仰の確信がここにあるといってよい。今日の言葉で言い換えると、イエスは救い主であるという確信です。

 さらにもう一つ、互いに支え合う信仰と言っていいでしょう。この人を何とか助けたいという数人の人たちの祈りと熱意です。共同体のとりなしの祈りと言うことも出来ます。私たちの信仰は、実は教会という共同体の中で生まれるのです。群れの一人ひとりが祈って支えてくれる。その祈りの中で信仰が生まれてくるのです。この友人たちの祈りと熱心により、中風の人はキリストの前に置かれたのです。この友人たち、ひと群れの人たちの祈りを「彼らの信仰」と見てくださるのだと言っていいでしょう。

 主イエスはこれらを信仰と見てくださった。「お前の信仰は御利益信仰だからだめだ」とか「もっと聖書を学んでから来なさい」とは言われない。主イエスに対する切実な期待と支え合う姿を信仰と見てくださるのです。そして主イエスは「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。新改訳では「友よ」と訳しています。期待と共に不安を持つ病める人に対しての主イエスの暖かい配慮が現れています。友人たちの暖かな配慮の中で、主は「あなたの罪は赦された」と言われた。病人と友人たちが求めたのは病気のいやしでした。ところが、今、主イエスは「罪の赦し」を宣告されたのです。願い求めた以上の根源的な回復が与えられたのです。