1月27日礼拝説教 「手を差し伸べる主」

                      2013年1月27日

聖書=ルカ福音書5章12-16節

手を差し伸べる主

 

 私は浜松教会の兄姉が「ディアコニア室」を立ち上げて、震災で苦しむ方々のことを覚えて祈ると共に、実際に出かけて手を差し伸べていてくださることを本当にすばらしいと申し上げたい。今朝は、手を差し伸べることが、どれほど重要なことかを考えてみたいと願っています。

 「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」と記されます。「重い皮膚病」と訳されましたが、実はこの病について主イエスの時代の本当のことをお話ししなければ、この出来事の意味は分かってもらえないと思います。旧約時代、イエスの時代も、この病は普通の病気と区別されていた。他の病気のように医者にかかって治れば「よかったね」と言って、それでお仕舞いになる病気ではありませんでした。汚れるという性質のものでした。

 ですから、本人も「わたしを清くしてほしい」と願い、主イエスも「清くなれ」と言われた。「清い」という言葉は、神に近づきうるということです。神礼拝に用いられるものが清いのであり、清いとは礼拝に参加できるということです。この重い皮膚病の人は確かに肉体的にも病んでいた。しかし、その苦しみ以上に孤独という魂の病に冒されていたのです。当時、重い皮膚病と見なされた人は社会的な交わりから閉ざされました。家族や隣人から隔離され、追放された。当然、会堂や神殿の礼拝にも参加できない。神の民でありながら、神から引き離される苦悩を味わっていた。

 人は苦しい時こそ、苦難の時こそ、神の前で祈りたい。神にかき口説いて訴えたい、神に癒しを求めたい。ところが神を最も必要としている時に、神の臨在の場である神殿から、会堂からはじき飛ばされてしまっていた。こんな酷いことはない。この人の問題は肉体の病だけでなく、深く魂の問題でした。彼は神に生きることを求めていた人なのです。

 重い皮膚病の人が主イエスのもとに来たことは、ある期待を持っていたからです。律法の教師であったら逃げられてしまうか、石でも投げつけられてしまうかもしれない。しかし、イエス様は違うと考えていた。イエス様は逃げ出しはしないだろう。むしろ真剣に自分の頼みを聞いてくださるであろうと考えていた。それだけでなく、「主よ」と呼びかけているところから、イエスをただの人間と見るのではなく、神の力を持つ人として理解していたようです。神の如き力を持つお方でなければ自分の重い皮膚病も癒してもらえないだろう。このお方にはそれが出来ると確信していた。

 しかし、不安があった。自分のためにその力を振るってくれるかどうか確信がなかった。そこで「主よ、御心ならば」と言う。この重い皮膚病の人は自信や自尊心を失っていたと言っていいでしょう。「わたしを清めてください」と言い切るだけの自信がなかった。それに対して、主イエスは不安を抱いて求めてきた人に向かって「よろしい。清くなれ」と言われた。この主イエスの言葉はたいへん強い言葉です。意味を補って訳すと「そうだ、わたしは今、それを欲する。あなたを清めるのがわたしの意志だ」とスパッと言われたのです。家族からも社会からもはじき出されていたこの男をいやし、きよめて、神のもとに回復させることこそ「わたしの意志だ」と言われたのです。

 そうおっしゃると共に、主は「手を差し伸べてその人に触れ」たのです。この箇所で見落としてならないことは「手を差し伸べてその人に触れ」という短い一言です。この重い皮膚病の人の癒しの出来事はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書に共に記されています。共通に記していることは、主イエスが手を伸ばしてこの男に触られたということです。そして直ちに病は去ったと記されています。

 旧約では「重い皮膚病」の者は「汚れた者」とされ隔離されるだけでなく、万一彼に触れた者も夕方まで汚れると規定されていた。そのため出歩く時には「汚れたもの」「汚れたもの」と呼びかけねばならなかった。ところがこの重い皮膚病の人に、主イエスは恐れることなく近づいて手を伸ばして触れられたのです。感傷的という以上の具体的な愛の業です。主イエスは律法の規定に一切お構いなく、むしろそのような規定を無視して手を差し伸べて触れられた。どんなふうに触れたのか記されていません。握手だったか。もっと深い触れ方ではなかったかと思う。腕を握り、肩に触り、欧米人が抱き合う、ハグするようにではなかったか。手を触り、肩に触れ、抱き合う時に、私たちはそこに暖かみを感じる。この重い皮膚病の人にとって、人生初めての体験と言ってもよかった。主イエスのお気持ちが体温を通して伝わってくる。これが手を伸ばすということです。

 重い皮膚病の人は「御心ならば」と遠慮がち、ためらいがちに申し出た。長い間の差別から、彼は自信を失っていた。自尊心、自分の価値を見失っていた。それに対して、主イエスは「あなたを清くすることはわたしの意志だ」とおっしゃられた。そして手を伸ばして自分に触れ、自分を抱き止めてくれた。自分が愛されていること、受け入れられていることを肌のぬくもりで実感したのです。

 病むことによって神から引き離されている人がここにいるのです。神から引き離されているこの男の姿の中に、神に近づくことの出来ない人間、失われた人間の姿がある。主イエスは、だれであっても神に近づくことが出来る。いや、このような人こそ、神に近づくのだ、このような人を神のもとに導くことこそ、わたしの願い、わたしの意志なのだと言われたのです。私たちの救いはこのキリストの御意志によるのです。