1月20日礼拝説教 「お言葉ですから」

                     2013年1月20日

聖書=ルカ福音書5章1-11節

お言葉ですから

 

 キリスト教信仰は唯一の生ける真の神を信じる信仰です。しかし、ただ唯一神を信じるのではなく、その神がイエス・キリストにおいて顕された神であることです。この個所はキリストにおいて神を見るというシモン・ペトロの貴重な経験を記しています。

 シモンは主イエスとも知り合いで親しく交わりをしておりました。イエス様を自分の家に迎えて安息日の昼食をするというほどです。しかし、まだイエスの弟子になっていたわけではありません。昼頃のことです。「ゲネサレト湖」、ガリラヤ湖はたいへん豊かな湖で、魚の種類も多く豊かです。湖畔の漁師たちはまだ暗いうちに漁に出ます。明るくなって漁を終えて帰ってくる。今、「漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた」。その漁師の一人がシモンでした。主イエスは湖畔に立って漁師たちの働き、特にシモンの働きにじっと目を留めておられたのではないでしょうか。

 その時、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」。そこで主イエスは彼らに教えるために親しくしていたシモンに頼んで舟を出してもらうことにした。シモンにとって迷惑だったろうと思う。暗いうちから漁に出て疲れている。しかし、いつも親しくし、先にはしゅうとめの熱病を癒してもらった。嫌とは言えない。シモンは舟を出し、主イエスはその舟の上から群衆に語られた。

 さて、説教が終わりました。すると主イエスはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンはムッとしたでしょう。シモンはガリラヤ湖の漁師です。この土地で生まれ育った漁師のプロです。イエスは内陸部のナザレで大工ヨセフの息子として育ってきた。漁のことは知らないはずです。実際、イエスの言うことは漁師の常識に反している。普通、漁をするのは夜から夜明け、早朝にかけてです。暗いうちしか魚は捕れない。また魚は沖合ではなく、浅い魚礁などがあるところです。シモンは長年の漁師としての勘と経験で分かっていた。しかも不漁で帰ってきて疲れてもいる。網を繕って準備をしてからでないと漁は出来ない。

 主イエスはプロの漁師シモンの経験と常識の反対のことを命じた。日の照る真昼頃、深みに乗り出して漁をしなさい、と。しかも漁をする大切な網はまだ繕いも終わっていない。シモンは「イエス様、あなたよりも私の方が漁のことはよく分かっているのですよ」と言いたかったと思う。しかし、シモンは今までイエス様のなさった驚きの御業をその目で見てきた。悪霊に取り付かれた男の癒しを目の当たりにした。自分のしゅうとめの熱病を癒してくれた。イエスの御言葉には不思議な力があることをよく知っていた。そこでシモンは「先生、わたしたちは…何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

 「お言葉ですから」という言葉にシモンの複雑な気持ちが表れている。必ずしも全面的信頼の言葉ではない。シモンは疲れている。漁の経験と常識にも反する。しかし、主イエスのお言葉には不思議な力がある。ですから、シモンは従った。あなたのお言葉に賭けてみましょうと。あなたの御言葉ですから、従ってみましょうと。信仰の冒険と言っていい。御言葉に基づいて踏み込んでみるのです。信仰への歩み出しには、このような初めてのことに踏み込むことが求められるのです。

 シモンたち「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。…」。驚くべき大漁でした。シモンは今までにも大漁を経験したことはあった。しかし、この出来事はシモンにとって恐るべきことでした。彼は人間の知恵と経験を超えるお方を、ここに見た。シモンは主イエスにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言う。シモンはこの時、イエスの中に神を見たのです。シモンはこの時まで主イエスを「先生」と呼んできた。分け隔てなく交わり、愛情を持って接してくれる優れた律法の教師「先生」でした。

 ところが今ここで、シモンは悟った。このお方は神が共におられるお方であると。ですから「主よ」と叫んだ。イスラエルの人にとって「主」は、聖なる神ヤハウェを表す言葉でした。シモンは、主イエスの中にモーセに現れた聖なる神、ヤハウェの臨在を感じ取ったのです。主イエスの中に生ける真の神を見たのです。ですから「わたしから離れてください」と叫ばざるを得なかった。「私は罪深い者です」という自覚が生じたからです。今日、私たちが見失っていることの1つが「神の聖なること」、神の聖性の自覚ではないでしょうか。現代人は神を小馬鹿にしている。神への恐れがないことは人間の本質を失いかけていることなのです。

 旧約時代、神に出会った人たちはシモンと同じように告白しています。イザヤも主の栄光を見た時、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ書6:5)と叫びました。イザヤの体験と極めて似ていると言っていい。シモンも主イエスの中に主なる神ヤハウェを見た時、恐れたのです。すると、主イエスはシモンに「恐れることはない」と言われます。「恐れることはない」という御言葉は、「あなたの罪を赦す」ということです。シモンの罪を赦す言葉です。罪が赦されるところで神との平安が与えられ、神との交わりが出来るのです。

 続けて主イエスは「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。彼を伝道者として召してくださった。神から失われている人を神に生かし、回復させることが「人間をとる」漁師の働きです。