1月13日礼拝説教 「ほかの町にも福音を」

                     2013年1月13日

聖書=ルカ福音書4章42-44節

ほかの町にも福音を

 

 「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」と記されています。前の日は安息日でした。主イエスは会堂で教えられ、悪霊に取りつかれた男をいやされました。午後からはシモンの家に招かれて熱病で苦しんでいたしゅうとめをいやされた。安息日が終わる夕暮れからは病める人たちを連れた多くの人がシモンの家に押し掛けてきた。主イエスはその一人ひとりに御言葉を語り、慰め、悪霊を追放し、病をいやされた。一段落したのは朝も明るくなった頃です。主イエスは疲れていました。主イエスは決してスーパーマンではありません。丸一日集中して神の言葉を語り、一人ひとりをいやすことはたいへん疲れることです。

 主イエスは休みを欲したのです。激しい活動の後、静まる時を求められました。ご自分のいやしの時を取られたと言って良い。そのため人里離れた淋しいところに出かけられたのです。主イエスは心身共に疲労し、力を消耗しておられた。御言葉を語り、伝道し、人をいやすことは精神的な重労働です。肉体の疲労を回復させるためだけのことではありません。神に祈り、神と交わり、神から新しい力を与えられるためでした。

 一人静まる時を持つという行動は、主イエスのご生涯の中で何度となく繰り返されました。霊肉共にいやされ、回復される時を持つことは、主イエスや旧約の預言者たちだけでなく、今日の伝道者にも必要なことです。人は激しく働けば働くほど霊肉共に疲労します。そこで疲労をいやし、内なる力を神からいただかねばならないのです。休息の時を大切にしないと伝道者も燃え尽き症候群になってしまいます。

 日本の教会では、伝道者の休息について少し以前まではほとんど考えてこなかったと言っていい。私の先輩の牧師の多くは戦前生まれの方々です。「私は1回も講壇の奉仕を欠くことはなかった。一日の休みもなかった」と言われた先生が多くあります。感心すると同時に、何とも言えない想いがしました。牧師も休みなく働き続けると無気力な生活になってしまう。新しいことに取り組むためにも、一定の研修期間としての休暇を日本の教会も考えねばならないと思っています。主イエスは安息日の奉仕の働きが一段落したところで、人々から離れて静まる時を持たれました。主イエスにしてそうであるとすれば、私たちはなおさらです。

 これは決して伝道者だけのことではありません。日本人の生活自体を考え直すべき時です。私たち一人ひとり、自分の霊的、肉体的ないやしの時を持つ必要がある。仕事、仕事で忙しくして、家族も顧みないような生活は必ずどこかで破綻します。かつて私たちの国、日本では休みなく働くことが美徳でした。家庭のこと一切は妻に託して単身赴任を疑うことなく、子供の養育も奥さん任せにして、働き蜂であることが一人前の社会人と見なされるような時代がありました。その結果、家庭の崩壊となり、離婚の増大となり、登校拒否などの青少年の問題が産み出されてきた。

 今、経済的には不況の中にありますが、休暇をとって家族でどこかに出かけるとか、キャンプに行くというようなことが大切だと思っています。家庭の意味と重要性とを再認識する大切な時です。働き詰めですと精神的な余裕を失い、他を顧みることが出来なくなってしまいます。主イエスも自覚してご自分のいやしの時をとられたのですから、私たちも自覚して自分をいやす時を持つ必要があるのです。

 さて、次の主題に移ります。カファルナウムの町には主イエスを求める人が大勢いた。そこで「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」のです。群衆が主イエスに「自分たちから離れて行かないように」と願ったことは、一見、主イエスに対して熱心であり、慕っているようにも見えます。しかし、ここにあるのは利己主義です。主イエスを自分たちだけのものとしようと囲い込もうとしているのです。主イエスのいやしの力を自分たちのところだけに囲い込んでしまおうという思いです。主イエスは、このような群衆の自分中心の思いを見抜かれます。

 主イエスははっきりと言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。主イエスのなしておられたことは、実は神の国の福音の伝道です。主イエスのいやしのみ業は生ける神が今ここにおられる、神が生きて働いておられることのしるしなのです。主イエスはここでご自分の使命を明確にお語りになられます。それは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」です。そして実際にこの後、主イエスはカファルナウムの町を離れて他のユダヤの諸会堂でも神の国の福音を伝えられました。しかし、「ほかの町にも」という言葉の中にはユダヤだけでなく、ユダヤ、サマリア、地の果てまでもという全世界への視野が含まれています。復活された主は、弟子たちに全世界に出かけて行っての伝道を命じられました。主イエスは弟子たちを用いて、今もほかの町々への伝道を続けておられるのです。

 私たちは今日、この主イエスの伝道の延長線上で、この町・浜松の地に遣わされた者として奉仕しているのです。これは牧師、伝道者だけのことではありません。すべての信徒がキリストの弟子として派遣されているのです。主イエスの福音伝道のみ業を受け継いで奉仕するのです。主は今も働いておられます。キリストの伝道のみ業を共に担う光栄に、私たち一人ひとりあずかっているのです。この年、群れのすべてが主イエスの伝道の働きを共に担う者として奉仕してまいりたい。