1月6日礼拝説教 「礼拝生活の充実」

                        2013年1月6日

聖書=ローマ書12章1-2節

礼拝生活の充実

 

 2013年の最初の主日礼拝です。今年の教会の標語は「礼拝生活の充実」とさせていただきました。本日はこのこととの関連でお話しさせていただきます。礼拝と日常生活との関わりについてお話ししたい。

 宗教改革者の一人にジャン・カルヴァンという人がいました。カルヴァンが口癖のように語っていた言われる一つの言葉があります。「コーラム・デオ」(Coram Deo)というラテン語の言葉です。その意味は「神の前で」ということです。神の御前で生きるということです。いつも神を意識し、自分の生活を神の目にさらして生きる生き方と言っていいでしょう。これが礼拝と日常生活とを一つに結ぶ生き方です。

 日本では、カルヴァンはずいぶん誤解されてきたのではないかと考えています。私も以前は、カルヴァンはたいへん強い人、極めて理屈好きの人、論理の人と考えていました。実際はだいぶ違うようです。牧師になりたくなかった人、人の気持ちが分かる人、静かに落ち着いた学究生活を妻と一緒に送りたかった人です。しかし、思いがけず牧師になり、ローマ・カトリック教会と戦わねばならず、ジュネーブ市議会とも戦わねばならなくなった。彼は一途ですから激しく論争した。論争は相手を傷つけると同時に、自分も傷つきます。彼は本当に多くの傷を負っていた人でした。

 カルヴァンが妻のイドレットに送った手紙も残っています。二人の間に子どもが生まれましたが、直ぐになくなります。まもなく妻も亡くなります。結婚生活はわずか9年間でした。彼は激しく泣き、激しく祈りました。その状況を先輩の牧師ファレルに書き送っています。彼は感情の人でした。いわゆる禁酒禁煙の厳格な人でもありませんでした。カルヴァンをジュネーブの牧師として招聘した時の招聘状が残っています。牧師の招聘状には給与などの細かい条件が記されます。それには「ぶどう酒2樽」と明記されています。恐らくカルヴァンも妻と一緒に教会から支給されたぶどう酒を楽しんだことでしょう。カルヴァンは強い人ではなく、私たちと変わらない弱い人でした。罪も失敗も数多く犯した。しかし、彼は自分の生活のすべてを神を意識して生きた。それはかっこいい生活を神に見せたのではない。まことに弱く、ムキになり、失敗し、傷つき果てた生活を神の前にさらして、赦しを求め続けて生きたということです。カルヴァンが語る「コーラム・デオ」(神の前で)とは、そういうことなのです。

 礼拝は奏楽から始まっていろいろな要素、プログラムが組み合わされています。大きく2つの要素があります。1つは神からの語り掛けの部分です。けれども、礼拝は一方的な神の語り掛けを聞くだけのものではありません。キリストの血によってあがなわれた民が、キリストの恵みに感謝して応答する部分を持つのです。祈りも讃美歌も信仰の告白も神の恵みに対する応答です。献金も応答です。これらは罪が赦されて神との交わりに生きることの出来る私たちの恵みを感謝しながら、信仰をもって神に応答することです。礼拝は、神の語り掛けとわたしたちの信仰の応答とがうまく組み合わされて成り立つ、神との出会いの時なのです。

 ローマの信徒への手紙12章1,2節をお読みいただきました。ここには信仰の応答としての礼拝についてが記されています。礼拝が具体的な「自分の体」との関わりで教えられています。私たちの体でなす生活、私たちの日毎の生活が神に献げる礼拝なのだと言われているのです。聖書朗読や説教を聞くことも信仰の応答です。説教を聞くことにどれだけ集中するかということはたいへん大事なことです。聞くことを、私は長い間、受け身として理解してきました。しかし、積極的な働きなのです。旧約の預言者たちは「見よ」、「聞け」と言いました。見ること、聞くことが、神の語り掛けを受け止める積極的な働きなのです。神の言葉を聞くという積極的な応答がなければ礼拝は成立しないのです。説教を聞くことは信仰の応答なのだという理解をきちんと受け止めていきたいと思います。これは私たちが聞いて信じて神に生きるためです。

 最後に、説教を聞くことは礼拝の場で終わらないということです。説教を聞くことが信仰の応答であるとは、礼拝という集会が終わったら、それで終わりというのではないということです。礼拝は集会が終わってもまだ続いているのです。礼拝が終わって教会堂を出ていってから、御言葉をどのように聞いたのかということの応答が始まるのです。

 主イエスは1つの例えを語られました。ある王様の家来が1万タラントンという巨額な借金をしていた。どうしても返済できないので、家来は王様に哀願し借金を赦してもらった。その家来は王様の元を離れてすぐ100デナリオンを貸していた仲間に出会うと返さないと言ってしもべ仲間を牢獄に入れてしまった。王はこのことを聞いて、たいへん怒って彼を今度は獄に入れてしまったと言う例えです。(マタイ福音書18章)

 この例えは、神の愛といつくしみによって罪赦され、恵みに生きる者とされた者が、その説教と礼拝において示された恵みに、どのように応答して生きるかということについての教えです。説教を聞くことは、聞いて終わりではない。どのように聞いたかということは聞き終わって会堂を出てから応答が始まるのです。応答としての礼拝は、次の主の日に礼拝に集まる時まで継続しているのです。これが「コーラム・デオ」(神の前で)という言葉で言われていることなのです。もう一度、初心に戻って、礼拝の意義を深く考えながら、礼拝に基礎を置く日毎の生活に励んで参りたい。この願いが、この年の標語に示されていることなのです。