12月30日礼拝説教 「主に仕えて生きる」

                      2012年12月30日

聖書=ルカ福音書4章38-41節

主に仕えて生きる

 

 「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった」と記されています。シモンは、後にペトロと呼ばれるシモンです。この時はまだ弟子になっていません。主イエスは安息日礼拝の後の食事に招かれたのです。もうシモンは結婚していました。この箇所にはシモンの妻の姿は出てきません。妻の母がここには記されています。妻の父親はもう亡くなっていたのでしょう。シモンはそのため妻の母親を引き取っていた。このしゅうとめが折悪しく高い熱で苦しんでいた。風邪か熱病なのかは分かりませんが、高い熱でうなされています。安息日礼拝に行くこともできない。客としておいでになった主イエスを迎えることもできない状況です。奥の部屋で一人床に伏していたのではないでしょうか。

 そこで「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」のです。シモンの家には主イエスだけでなく近隣の人たちも招かれていた。シモン自身が頼んだのではなく、彼女のことをよく知っている人たちが会堂から一緒に付いて来て頼んだのです。彼女は周囲の人たちから尊敬され、好かれていたのではなかったでしょうか。周囲の人たちが彼女のいやしを主イエスに頼んだのです。私たちも隣人のために、主イエスに助けを求める執り成し手となりたいものです。

 主イエスはその願いをお聞き入れになりました。彼女の部屋に入り「枕もとに立」ちました。ルカらしい細やかな表現です。病人の枕許に立つとは、顔をつき合わせるという位置です。しゅうとめの顔を見て苦しんでいる姿をご覧になって「熱を叱りつけられ」ました。主イエスの御言葉の力で熱病が追い払われたのです。32節に、主イエスの「その言葉には権威があった」と記されている。主イエスが御言葉が語られると直ちに「熱は去り」、いやされました。この個所は主イエスのお言葉には権威と力があることを明らかにするカファルナウムの会堂での続きです。主イエスはみ言葉をもって悪霊に打ち勝ち、また病をいやすお方です。私たちも主に「いやしてください」と祈り願い求めてまいりましょう。

 しかし、シモンのしゅうとめのいやしの出来事で中心的な事柄は、いやされた人がどう生きたかということです。「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」と記されています。短い言葉ですが、この記事を記したルカが伝えたかったのはこの1行です。「もてなした」とは、何か特別なことをしたのではありません。主にお仕えしたということです。安息日の午後の食事ですから極めて簡素なものです。安息日には働いてはならないのですから本格的な料理をすることは出来ません。前日に用意していたものを出すだけのことです。しかし、彼女は起きあがって、主イエスに仕えることの出来る喜びをもって食卓の用意を整えたのです。彼女はこの時だけでなく、この後生涯、主に仕える者となったということです。

 主によっていやされ救われた者が、その喜びを表す奉仕がここに始まるのです。この後、シモンはペトロと呼ばれ、主イエスの弟子、使徒となりました。あまり家庭を顧みることもできなくなったでしょう。さらに主イエスが地上を去られた後、ペトロは各地を伝道して回りますが、妻を連れて巡回伝道をした。その時、主の恵みを感謝しつつ娘婿のペトロの家庭を守ったのはこのしゅうとめでした。彼女は救われた恵みに感謝して主に仕える者として生きたのです。このしゅうとめの姿はキリストによって救われ、いやされた人がどのように生きるかということを示しています。救いの恵みに感謝してできうる奉仕をもって主に仕えるのです。「私はもう年寄りだから」、「私には賜物がないから」というようなことは決して言っていない。彼女はなし得る奉仕をもって主に仕えて生きたのです。

 40節「日が暮れると」と記されています。日没、夕暮れになると「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」。なぜ、日が暮れてから来たのでしょうか。ユダヤの一日は日没から始まるからです。日没で安息日は終わる。しかも日が落ちてもなお夕の明かりがあかあかと長く続くのです。太陽が地平線に沈むのを待ちかねて、人々はシモンの家にやってきた。

 安息日には何もできなかった人々が病気に悩む人たちを抱えてやって来たのです。この人たちは会堂でなさった御業、シモンの家でなされたいやしを伝え聞いて急いでやって来た。すると主イエスは「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」。5,6人まとめてとか、10人まとめてというのではなく、一人ひとりを取り扱われます。主イエスにとり一人が大切です。神のもとから失われている一人を捜し出して救うのが、主イエスのなさったことです。一人ひとりの病状を尋ね、痛みや悩みを聞き、慰めの言葉をお語りになって手を置いていやしたのです。

 ここに、主イエスの病む人に対する激しい愛と激しい伝道があります。主イエスは、今もこのように激しく働いておられます。この主イエスのもとに病む者たちを連れて来ることです。今日、多くの人は肉体的だけでなく、心も病んでいます。多くの人が救いを必要としているのです。主イエスの力ある御言葉が語られているところ、それこそ教会の礼拝です。そこに多くの人を連れてきて、主イエスのみ言葉の力に委ねるのです。私たちの力で人をいやすのではありません。私たちの力では何も出来ません。主イエスの御言葉の権威と力が人を救うのです。このことを確信して、「教会の集会に集まろう」、「主イエスのところに行こう」と、声を掛け合っていこうではありませんか。私たちのなすべき感謝の奉仕なのです。