12月16日礼拝説教 「神、我らと共にいます」

                     2012年12月16日

聖書=マタイ福音書1章18-25節

神、我らと共にいます

 

 待降節第3主日の礼拝です。クリスマスの最も基本的な意味について学びたいと願っています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉に焦点を当てて考えましょう。

 処女マリアが産む幼子の名は「イエス」です。では「インマヌエルと呼ばれる」とは、どういうことでしょう。「インマヌエル」とは「神が我らと共に」という意味の言葉です。イエスというお方の説明と言っていいでしょう。預言者イザヤによって語られた不思議な名前です。主イエスの時までこのような名前で呼ばれた人はいません。これは本来、人の名前ではなく救い主の働きを示す言葉です。イエスというお方において神が私たちと共に住んでくださるという出来事が起こったのだということです。

 罪を犯して神の顔を避けて逃れているアダムとエバに対して、神は「あなたは、どこにいるのか」と探し求めました。この神の探し求めがやがてキリスト誕生となったのです。クリスマスの出来事は神の訪問、神の罪人訪問と言ってよい。人間は神に背き、神なしに生きてきた。神なしに生きている者たちを、神はなお愛してくださり、罪人を訪ね、罪人の世界に住み込んでくださった。住み込むというだけでなく、私たちの罪と汚れの一切を共に背負ってくださったのです。

 今日、インマヌエルというと主イエスのことしか考えないのではないでしょうか。これは少し違う。旧約の時代から、神はインマヌエルの神でした。モーセに、神は幕屋を造ることを命じられた。出エジプト記25章8節「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」。神がイスラエルの民の中に住むと言われた。ここに具体的な「インマヌエル」が始まるのです。天地を造られた全能の神が罪人と共に住むと言われた。哲学的な言い方で言えば、超越の神が内在の神となられたのです。神の民イスラエルと言っても、イスラエルもまた罪人です。神は罪人と共に住む神となってくださった。このことを旧約の民に具体的に目に見える形で示すものが「幕屋」でした。

 今や幕屋ではなく、人となられたイエスにおいて「真のインマヌエル」が示されたのです。イエス・キリストというお方は、まさに神が人となられたお方です。神が処女マリアから私たちと同じ人間の肉体を取られた。神が主イエスというお方の中に「幕屋」されたのです。永遠・普遍・無限の神が有限であり罪人である人間の中に住み込まれた。この出来事を「インマヌエル」(神我らと共にいます)という言葉で表しているのです。

 「インマヌエル」には、2つの意味が含まれています。ヨハネ福音書1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されているとおりです。1つの意味は「言は肉体となった」です。主イエス御自身が「神が共にいます」お方なのだということです。「共に」と言うことは1つに結ぶということです。主イエスにおいて神と人とが1つに結ばれた。まさに「神、人となる」ということです。主イエスというお一人の中に、神としての性質と人としての性質をお持ちになる。神がイエスの中に幕屋しておられる、共に住んでおられるのです。

 けれども、主イエスがインマヌエルと言われるのはそれだけのことではない。もう1つの意味が「私たちの間に宿られた」です。苦しむ人間世界の人となられた。「インマヌエル」という出来事にははっきりとした目的がある。それは神が共に苦しむためです。英語で「Compassion」という言葉がある。単なる同情(sympathy)ではない。苦しみ呻く人の傍らでその苦しみを共に担うことが「Compassion」です。「共苦」、「共に苦しむ」と訳されますが、まだ日本語の辞書にはない。神はキリストにおいて人間の中に住み込んで苦しむ神となられたのです。悩みや困難の中にいる者たちと共にいて、苦しみを共に担う神となってくださったのです。

 幼子は成長し救い主として立たれます。主イエスは人々からつまはじきされていた徴税人、罪人・遊女と言われた人たちと一緒に食事し、交わりをされた。これを見た周囲の人々が「なぜ、こんな連中と一緒に食事するのか」と詰め寄った。すると主イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。主イエスは、悩みや困難の中にある人、差別され、つまはじきされ、病んでいる人たちのところに来られたのです。重荷を担って生きねばならない人のところに来て、その人と一緒に苦悩を担って下さった。

 今日、あらゆるところに生きるための苦悩を見る。学校ではいじめがあり、若い命が失われている。自殺者が毎年3万人を越えている。大震災で家族を失い、家を失った人たちの叫びが聞こえてくる。原発事故によって故郷を去らねばならない人の痛みの声が届けられている。キリストはこの苦しみと悩みを一緒に担っています。十字架の主イエスは人間の苦しみの根源を見て、共に呻き苦しみ、苦しみの根源である罪の贖いをしてくださった。このことを受け止めるところで十字架の福音が輝き出るのです。

 人間の苦悩の源泉は罪にあります。神への背神から人間の苦悩は始まった。生老病死という苦悩は罪に由来する。この罪の苦しみをすべて掬い取って、主イエスは十字架を担われたのです。人間はどんなに隣人の苦しみに同情し共感しても苦悩の根源を共に担うことは出来ない。ただ主イエスだけがインマヌエルの神として、私たちの罪と苦しみ、すべての人間の苦悩と負債とを十字架において処理してくださった。贖ってくださった。このキリスト到来を喜び祝うのです。ここに人間の救いがあるからです。