12月9日礼拝説教 「キリストを着る」

                    2012年12月9日

聖書=ローマの信徒への手紙13章11-14節

キリストを着る

 

 「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と記されます。この御言葉はたいへん時宜にかなった覚えるべき御言葉です。ここで言われていることは「時を知る」ことです。キリスト者であることの特徴は「時を知る人」であることです。

 私たちの国は大きな構造変化の時を迎えています。政治も経済も、人の意識も大きく変化している。明治維新期、第2次大戦後の激動に次ぐ、第3の激変の時代と言ってよい。激変の時代に身を処して行かねばならない。今の時の意味を知ることは大切なことです。3・11の東日本大震災と福島の原発事故は、日本人の生活のあり方を変えると言ってよい出来事です。そのことについて私たちは何を考え、どのように決断していかねばならないのか。戦後民主主義を支えてきた政治体制が、今変えられようとしている。このままでいいのか。今の時をどう理解するかが問われている。今回の総選挙で、キリスト者は信仰に立った判断が求められているのです。

 この聖書箇所と関係して一人の人を紹介したい。名前はアウグスチヌス。4世紀後半から5世紀の前半にかけて生きた人です。北アフリカのヒッポの町の司教でした。カトリック教会だけでなく、プロテスタント神学、改革派教会の神学にも決定的な影響を及ぼしている巨人です。しかし、アウグスチヌスは最初からすばらしい人物でも立派な人物でもなかった。頭はよかった。ミラノの塾で哲学や論理学の講師などをして飲み代を稼いでいた。飲んだくれて放埒三昧、若くして女を作り子も産せていた。早くにクリスチャンになっていた母親モニカを心底から泣かせていた。後に彼は「告白録」を記すが「この時代、私は肉欲に支配され、荒れ狂い、まったく欲望のままになっていた」と告白している。このような中で悶々としている時に、隣の庭で遊ぶ子どもの声がした。その声が「取りて読め」と聞こえた。手近にあった新約聖書を取ったら、たまたま開かれたのがローマ書13章11-14節でした。彼はそれをむさぼり読んだ。

 彼はこの時、頭を殴られたように感じた。「今がどんな時か」、「眠りから覚めるべき時だ」。そう感じた。自分の生き方は酔っ払って眠っていたようなものだと感じた。「酔生夢死」という言葉がある。意味のない人生を送ることです。アウグスチヌスは自分がそれまでに生きてきた道は「酔生夢死」、「酔っ払ったように生き、夢のように死ぬ」生き方だと悟った。神に頭を殴られて変わった。神を信じて真剣な生き方に変わった。

 この「時」の理解は終末の時とは違う。人生の時です。人生には「時」がある。自分の生き方を定める時がある。伊能忠敬という人はおもしろい生き方をした人です。彼は50歳までは忠実な商家の主人として過ごす。目立つことは何もしていない。50歳で家督を息子に譲ると、それから江戸に出て測量の仕方を1から学ぶ。そして以後の後半生で、日本全国を足で歩いて精密な地図を造り上げた。人生、どこかで変わる時がある。

 信仰との関わりで「時」がある。キリストを信じ、キリストに結ばれる者として生き直す時がある。今までどんな生き方をしていたにしろ、変わる時がある。飲んだくれて放り出されるような人でも、変わる時がある。それが「時を知る」ことなのです。自分の人生の生き方をしっかり定める時です。これは若くして定まる場合もあります。50歳で定まる場合もあります。旧約のアブラハムは75歳で「神が示す地」に向けて出発した。「時」は、年齢とも、置かれている状況とも関わりません。

 もう私たちは眠りの中にいるべきではない、とパウロは言います。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」るのです。これらは夜の業、闇の行いです。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」は、パウロの時代、ローマ帝国の貴族、自由民と呼ばれる人々の生活の姿を示すものでした。多くの植民地を手に入れ富が流入し溢れ、毎日酒宴が催され、人々は酩酊し淫乱と好色に明け暮れていた。これは決して古代ローマだけのことではない。今日の日本も、ローマに劣らず「酒宴と酩酊、淫乱と好色」の世界なのではないか。私たちも闇の中で眠っているのではないか。時を知る者として、私たちは目を覚まさねばならないのです。

 パウロは「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と勧めている。「品位をもって」とは、酔っぱらってぐでんぐでんになっているみっともない姿ではない。昼間のしゃんとした姿です。「よい形」とは「主イエス・キリストを身にまとう」ことです。キリストを着なさいということです。「キリストを着る」とは、どういうことか。キリストを信じることです。キリストを我が主、我が神として信じて罪が赦され、神の子としていただくのです。キリストが私たちの義となり、聖となってくださる。私たちはキリストという義の衣をまとって神の子とされる。

 それだけではない。キリストを身にまとうところから新しい真剣な生き方が始まるのです。人は「眠りから覚める」と、洗面し、歯を磨き、上着を着て仕事に出て行く。私たちは眠りから覚めて「私はキリストのものだ」ということを、生活の中で証しして生きるのです。キリストを信じ、キリストに包まれて、キリスト者としてのはっきりした生き方、背中を正した生き方をすることです。私たちは、この世の中で信仰者として自覚的に生きるのだということです。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」が世の中の流れです。しかし、その中でキリストを証しする者として生きていくのです。繰り返し自覚的に、私たちはこのことを覚えて生きていくのだということです。これが「時」を知った者の生き方なのです。