2012年12月2日
聖書=マタイ福音書25章1-13節
主を迎える備え
待降節の礼拝として守ります。「待降節」は待つ時です。アドベントクランツのロウソクを週に1本ずつ火を灯してまいります。それによってクリスマスの近いのを確認するのです。キリスト教会は古くから祝祭日の前にある一定の準備の時を持ってきました。一ヶ月ほど祈りつつ、いろいろな準備をしてまいります。
その第1の準備についてお話しします。クリスマスを迎える備えとして、各自祈りの時を大切にしていただきたい。自分のため、家族のため、教会のために、真剣に祈る時を持っていただきたい。教会の祈りの時にも参加していただきたい。祈祷会に年に一度も顔を出さないのではなく、一年に1度でも2度でも顔を出して一緒に祈っていただきたい。普段は出席できなくても、クリスマスを迎える備えとして祈祷会に出席して祈りをもって主を待つ備えをしていただきたいと願っています。
キリスト者が待つのは、主イエスがマリヤから生まれた最初のご降誕を待つのではありません。それはもう来ている。私たちが本当に待たねばならないのは、天に上げられた主イエスが再びおいでになる時です。待降節は「もう、既に」ということと、「いまだ、なお」ということとの間で待つことを教えられる時なのです。この待降節の時を「主よ、来たりませ」と祈りつつ過ごしたい。
この聖書箇所は「婚礼」に関わります。婚宴は神の国の完成のしるしです。イスラエルの民は神の救いの完成を具体的に婚宴に見ていたと言って良い。神にあって人々が喜び、楽しみ、祝う、それこそ神の国です。神の国は神と人との親しい交わり、一緒に食事を楽しむような交わりとして受け止められています。終末は恐怖の時ではなく、婚宴のような喜びの時なのです。この婚宴の譬えの中で花婿とそれを出迎える10人のおとめの振る舞いが描かれています。当時の結婚式は花嫁の家で行われていた。花婿が花嫁の家に出迎えにやってくる。その花婿を出迎えるのが10人のおとめの務めでした。
最も大切なポイントは、花婿の到着を賢く待つことです。花婿がいつ来るのかは明らかにされていない。確かに花婿は来る。しかし、いつ来るのかは分かっていない。再臨のキリストを待つのと同じです。10人のおとめは「それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出ていく」と記されています。ところが番狂わせが生じた。「花婿の来るのが遅れた」のです。花婿の到着が遅れることはよくあった。古代近東の世界です。日本の鉄道のような正確なものではなかった。予備の油を持つことは常識だった。
花婿の到着は再臨を意味しますから、到着の遅れは再臨の遅れです。神のタイムスケジュールに事故があったのか。救いの計画に問題が起こって再臨が遅れているのだろうか。そうではない。救われる者が一人も洩れないようにとの神の深いご計画の中にあることです。
10人のおとめのうち「5人は愚かで、5人は賢かった」と言われています。賢さと愚かさを区分けるものは何だったのか。この区別はキリスト者・非キリスト者の区別ではありません。いずれも花嫁の友、花婿を迎えるあかりを灯す使命を与えられている。キリストを知り、キリストの到来を待つ意味を知っているキリスト者なのです。またキリスト者の半数が天国に行けて、半数が天国から締め出されるということでもない。招かれ、召されたというだけで安心してはならないということです。表面的に招かれ召された者すべてが花婿なるキリストと共に永遠のみ国を継ぐのではないという厳粛な事実を示されて、真剣な信仰生活を送るためなのです。
何が10人のおとめたちを分けたのでしょう。ただ一つの点にだけ絞られます。予備の油を持っていたか、持っていなかったかの違いです。彼女たちが手に持っていたのは携帯用の小さなランプです。てのひらを窪めた程度の少量の油しか入らない。予備の油を持たなければ長持ちしない。愚かと言われる女たちは待ち続けるだけの油の用意を怠ったことです。手持ちのランプの中のわずかな油で足りると思い、花婿が遅れることはないと思い込んでしまった。誤った安心感があった。何とかなると、たかをくくっていたのかも知れない。甘えがあった。愚かとは人間的な意味での能力のなさではなく、信仰についての厳しさを欠いていたことです。
では、この油は何か。ある人は信仰であると言う。信仰こそ、他人に分けることの出来ないもの。救いに与かる唯一の条件である。ある人は祈りであると言う。祈りこそ神を待つただ一つの条件です。私はそのどれもが関係していると思っている。愚かなおとめたちも信仰者です。問題はその信仰の継続なのです。祈りは油を手にいれるための手段です。油は神の霊、聖霊を表しています。聖霊こそ、信仰生活を内側から生かし整える力です。ともし火を灯す全ての道具だてが整っていても油がないと何にもならない。キリスト者としての外面的な事柄が整っていても聖霊のないところでは灯りを灯すことは出来ない。洗礼を受け、礼拝に集まり、献金を捧げて形を整えても聖霊に満たされなくては、愚かなおとめとなる。
愚かなおとめも信仰者です。最初から聖霊の働きがまったく無かったのではない。彼女たちも聖霊の働きとしての信仰が与えられていた。ところが油断した。信仰は自覚的に維持し、成長させていかねばならないのです。主の再臨を待つ信仰は、聖霊の油が与えられて持ち続けることが出来るのです。そのために必要なことは祈ることです。祈りを器として、通路として、神の御霊は働いて信仰を維持成長させて下さるのです。