11月18日礼拝説教 「旅人としての自覚」

                     2012年11月18日

聖書=ヘブライ書11章13-16節

旅人としての自覚

 

 教会では午後から「死と葬儀について」の学びをします。「わたしはまだ死ぬなんてほど遠い」と考えている人も多い。1つの詩を紹介したい。「誰がために鐘は鳴るやと問うなかれ。そは汝がために鳴るなればなり」。ジョン・ダンの詩の一節です。英国では街々に教会がある。会堂の屋根の上に鐘楼があり、お葬式があると鐘が鳴らされる。教会の鐘が鳴っている。街の人は「誰のお葬式だろうか」と言いながら道に飛び出してくる。この人たちに対して、詩の作者は「誰が死んだんだろうかなんて考えるのではない。この鐘の音は他ではないあなたのための弔いの鐘なんだ」と語っているのです。死は決して他人ごとではない。若い人も年老いた者も、それぞれ自分のこととして受け止め、考えていかねばならない大事です。

 この聖書箇所から教えられる第1は、キリスト者には天に故郷があるということです。上を目指して生きる人だということです。ここに「故郷」という言葉が何回か出て来ます。人間にとって故郷は忘れることの出来ないものです。旧約の人々は目に見えない故郷、ふるさとがあるという信仰を持っていた。アブラハム、イサク、ヤコブは族長と言われる人たちです。この族長の時代から、イスラエルの人たちは見えないものを見ているかのようにして、天にあるもの、天の御国を見つめて生きるという姿勢があったのだと記しているのです。

 死を見つめて生きるとか、死を自覚して生きる言うと、どんな生き方なのだろうと不思議に思うのではないか。暗い陰気な生き方をすることなのだろうか。実は死を自覚して生きるとは、天にある御国を覚えて生きることです。ヘブライ書の著者は、ただ過去の出来事としてイスラエルの族長たちの生き方を紹介するだけでなく、キリスト者もまったく同じなのだと言っているのです。同じ神を信じる信仰の立場から、キリスト者もこのような信仰的生き方に堅く立たなければならないと教えているのです。キリスト者は神によって生まれた者で神の国に本籍がある。そこに受け継ぐべき嗣業、資産がある。キリスト者は生涯かけて本籍のある天の御国を目指して歩んでいくのです。

 第2に教えられることは、「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること」です。新共同訳では「旅人」を「よそ者」と訳し、「寄留者」を「仮住まいの者」と訳した。「旅人」とは旅の途中で一時的にある場所に滞在している者を指し、「寄留者」とはその土地で生活しているが市民権を得ていない者を指す言葉です。今いる場所を本拠地としていない。これは信仰者を表す言葉です。信仰者は一人残らず、旅人であり寄留者です。キリスト者はこの地上のものに心を捕らわれることなく、天にあるふるさとを目指して生きる旅人なのです。この地上で旅人として生きることは、この世に執着しない生き方をすることです。

 地上の人生は旅の途中のようなものです。地上の人生は未完成だということです。未完成のままの自分の人生を受け入れること、それが旅人であり、寄留者として生きることなのです。人は、人生の中で「あれもやりたい、これもしたい」と野心を燃やす。功なり名を残したいと願う。しかし、もう自分の仕事は完了した、やり遂げたと言うことの出来る人は果たしてどれくらいいるでしょうか。若い時には、あれもしたい、こうもしたいといういろいろな願いがある。しかし、年を重ねていくと、そのどれもきちんと出来ていないことに気が付きます。ある人の書物の中に記されていた言葉ですが、「どんなに成功した人生も終わりまで来てみれば、あまりたいしたものではない」と。どんな人生も未完成なのだということです。

 第3にヘブライ書の著者が最も強く訴えているのは「神は、彼らのために都を準備されている」ことです。人生が未完成で終わるとは、人生は空しいということなのか。人生は「空の空、一切は空である」と言われるようなものなのか。決してそうではない。族長たちは自分たちの人生は未完成だと言って諦めたような生き方、投げ出したような生き方をしたか。決してそうではなかった。むしろ逆です。しっかりと顔を上げて、社会的な責任も果たして、目標をめざしてしっかりと生きたのです。

 「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。族長たちは神が用意してくださっている「神の都」を考えていたので、この地上の人生にやみくもに執着しなかった。この神の都こそ神を信じる者の完成なのです。「都」とは「土台のしっかりした揺り動かぬもの」ということです。神の都は神によって揺るがない土台の上に建てられ、もはや取り片付ける必要のない。族長たちは旅人・寄留者として天幕から天幕への生活をしていた。天幕の生活は不安だらけの生活です。食べ物がなくなることもある、野生の動物に襲われる危険もある。風に揺れる天幕の生活は不安定で気を休める時もない。そのような生活の中で彼らは天にある揺るがない神の都を望んで生きたのです。この揺り動かぬ都こそ、救いの完成であり、神が共にいますところです。

 私たちの人生はまことに旅であり未完成です。しかし、神のもとに帰り着き、神のもとに休むところで人生の完成がある。すべての人はこの地上の人生では未完成です。しかし、キリスト者は帰り行くべき故郷を知っている。この都である故郷に帰り着くことこそ、人生の完成なのです。キリスト者の死は天への凱旋であり、その葬儀は凱旋式だと理解しています。