2012年11月11日
聖書=ルカ福音書21章1-4節
神の御前で生きる
この個所から献金についてお話します。献金はキリスト者の生き方にとって大事なことです。献金の基本は感謝と献身です。キリスト教会の献金は会費でも教会税でもありません。信仰から出てくる感謝と献身の表明が捧げ物という形を取るのです。
神殿では男性の庭と婦人の庭があり、それぞれの庭にラッパの形をした13の献金の箱が置かれていた。主イエスの視線は2つの庭に置かれていた献金の箱に注がれていました。金持ちがやってきて人目につくようにこれ見よがしに多額の献金を献げていた。周囲の人はそれを見てホォーと感嘆の声を上げる。人はその金額の大きさを見て感嘆する。何とたくさんの献げ物をする人だ、すばらしい信仰だと。神社やお寺に行くと奉納した金額を板に書いて参詣者に掲示している。何千万、何百万の高額者の名前が大きく書かれ、数千円の人たちは小さな字で書かれる。それと同じです。
主イエスはこのようなこれ見よがしの献げ物に対して、こう言われる。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した」と。主イエスの目は少しも曇っていません。鋭さも失われていません。富む者は豊かな中から何の苦しみも伴わない献金を捧げる。そして人はその金額の多さを賞賛する。しかし、主イエスは金額を見るのではなく、捧げた人の真実を見抜かれます。
そこへ一人の女性がやって来た。貧しいやもめです。この時代、女性が夫を失うと路頭に迷う。ルツのように落ち穂拾いするしかない生活に陥る。しかし、この女性がやもめであるとは誰にも分かりません。何かしるしがあったわけではない。ただ、主イエスが見て取ってくださった。主イエスは、今も私たちの生活の内情をきちんと見て取ってくださるお方です。この女性が神に祈りを捧げ、礼拝し、誰にも気付かれないようにソッと献げ物を献金の箱に入れた。彼女がどれだけ捧げたのか、おそらく誰も分からなかった。人の関心も引きませんでした。しかし、主イエスは彼女の献げ物をしっかり見て取られた。レプトンとは最小の銅貨で、今日のお金に換算すると2,30円でしょう。それが2枚です。このような少額の献金をする人は珍しかった。誰の注目も引きません。彼女は来た時と同じように静かに立ち去っていきました。主イエスもこの女性を引き留めません。
主イエスは弟子たちにこの女性の捧げ物の意味を教えられた。弟子たちは献金の意味をしっかり覚えておかねばならない。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。……この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。この女性の献金から、主イエスが教えられたことは2つあります。1つは、主イエスは捧げられた献金の額を見られるお方ではないことです。多くの人の関心は金額に注意がいきます。しかし、主イエスは金額ではなく捧げる人の思いと姿勢を見ておられるということです。第2に、彼女の献金は彼女の献身であったということです。礼拝する者の心の中を見ておられる主イエスは、捧げられたレプトン銅貨の中に込められている深い意味を見逃しません。レプトン銅貨2枚が彼女の生活費のすべてであると見られた。金額ではなく、彼女の切ないまでの神への深い思いを汲み取ってくださったのです。
私たちはこのレプトン銅貨2枚を献げた女性から、時折、献金について誤解をする。金額なんか問題ではない。気持ちなんだと言って、実は気持ちの入っていないあり合わせの献金をしてよしとする場合がある。きちんとした献金をしない言い訳のように、この個所を用いる人もいる。これは大きな間違いです。意味をはき違えています。
この時代も礼拝における献金は自由です。彼女はレプトン銅貨2枚を捧げずに持ち続けることも出来た。1枚だけ捧げることも出来た。彼女はレプトン銅貨2枚を捧げて「たったこれだけしか献げられない」と卑屈にもなりません。また胸を張ることもしません。彼女は有り金全部献げてこれからどう過ごすのか、不安もあったでしょう。しかし、彼女は持てるすべてを捧げたのです。なぜ、そんなことが出来たのか。
彼女がいつ、どのような経緯からやもめになったのかは分かりません。しかし、身寄りのないやもめになってからも、神は彼女をしっかり守り続けてくださった。彼女は逆境の中においてもなお自分を支え続けてくださる神の恵みを実感して生きていた。彼女の献金は強いられたものではなく、人の目を意識した半ば強制のようなものでもありません。神が生きて働いてくださる。自分の生活を支えてくださる神の恵みを体験していた。その恵みの神に対する心からの信頼と感謝から持てる全てを捧げえたのです。
献金は本来、神の恵みに対する心からの感謝から出るものです。同時に、彼女は自分をどのような時にも支えてくださった神を見上げて、神に信頼しています。レプトン銅貨2枚にしがみついて生きるのではなく、神の摂理の御手、神の支配の御手にしがみついて生きてきた。自分の生涯全体の面倒を見てくださる神じていた。そして、その故に自分の生活全体を神の御手に委ねて、持てるすべてを捧げたのです。
この女性は、ただ神の御前に立ち、神のみ顔だけを仰いで、その神に自分の生きる道を委ねたのです。主はこれが弟子たちの生き方なのだと教えられたのです。「生活費」と訳されている言葉はビオンという語です。類義語にビオスがあります。「いのち、生活」と訳していい言葉です。自分のいのちそのものを全部差し出した。それが「生活費を全部入れた」ことの意味なのです。彼女は具体的には献金箱へ献げたのですが、実は生ける神の御手の中に彼女のいのちを献げたのです。これが献身なのです。