10月28日宗教改革記念礼拝説教 「カトリックとプロテスタント」

                       2012年10月28日

聖書=エフェソ書4章1-6節(宗教改革記念礼拝)

カトリックとプロテスタント

 

 先ず、宗教改革は一回限りの出来事ではなく、キリスト教会の歴史の中で繰り返し起こった教会改革運動の一つであることです。アッシジのフランシスコ、13世紀初めの人ですが、当時の中世キリスト教会への反発から説教運動を起こした。平信徒が説教するなどは、カトリック教会では許されていませんでした。当然、カトリック教会から弾圧されます。そのような中でしだいに教会の中にうまく取り込まれていきました。

 教会に対する批判、改革運動は繰り返し起こってきました。その中で、1517年10月31日、マルチン・ルターがウィテンベルク城教会の門扉に「95箇条の論題」を張り出したところから、今日に続くプロテスタント宗教改革が始まりました。16世紀という時代になったら、カトリック教会の中に丸め込むことが出来なくなっていたのです。

 宗教改革とは教会改革のことです。キリスト教会は聖書によって立ちますから、聖書を読むところでは、いつでもどこでも改革が起こって来ます。教会の営みが聖書から大きくずれてくると、聖書を読む人たちから「違うのではないか」という異議申し立てが起こる。これが基本的には宗教改革、教会改革の出発点です。聖書を読んで聖書に従った信仰の生き方、教会の営みをしていこう。これが改革運動の基本です。宗教改革とは16世紀にカトリック教会からプロテスタント教会が分離して完了ではありません。今も、いつまでも続けられていくものなのです。

 次に、カトリック教会とプロテスタント諸教会との関わりです。プロテスタントの人からカトリックの人たちを見たら、どうもカトリックは純正なキリスト教とは言えないのではないのかと考えるような面があります。マリア崇拝、聖人崇拝、偶像のようなものや奇妙な祭りがたくさんある。ミサで捧げるパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わってしまう。説教よりも儀式が中心だ。それらは非聖書的だと指摘することが出来る。

 カトリック教会はキリスト教とは言えない、異端になってしまったのではないかと思い込む方もいる。昔、ある出版社から「異端」という本が出ました。その本では、統一協会やものみの塔などと一緒にカトリックも異端の中に入っていました。私もはじめは「そうだ」と思っていたが、やがて本当にそうだろうかと考えるようになった。プロテスタント教会はどの教派であれ歴史を辿っていくと基本的にカトリック教会から出てきた。プロテスタント諸教会の母はカトリック教会です。異端の母親から正統教会が生み出されるだろうかという問題です。結論を言いますと正統から異端が出るのであって、異端から正統が生まれることは決してありません。

 カトリック教会は本来、正統的教会です。教会の信仰の基本は「信条」において表されます。古代信条と言われる使徒信条、ニケア信条、カルケドン信条、アタナシュウス信条などは古代のカトリック教会が生み出したものです。古代信条、基本信条とも言いますが、カトリックとプロテスタント、共通に告白しています。これらの信条はキリスト教の基本的な信仰、三位一体の神、キリストの二性一人格、キリストによる救いの唯一性などの基本的信仰は同じです。同じ基本的信仰を、私たちもゆるがせにしないで固く信じているのです。

 どこに問題があったのか。教会が歴史の中で歩む時に多くの問題が付いてきます。大きな船も長い間航海していると、船底にいろいろなものが付着します。貝殻が付き、海草が巻き付き、錆が生じる。船底を岩にぶっつけたり、衝突したりして歪みます。船は定期的にドックに入り、船底や横腹を削って補強し、ペンキを塗り直す。教会がいろいろな国や地域に入っていくと、いろいろな問題に出会う。教会の周囲にいろいろなものが付着する。民族主義、異教の伝統、政治の問題、哲学や文化の問題が教会に付いてくるようになる。イタリア的な教会、ドイツ的な教会、イギリス的な教会,南米的な教会、さらに日本的教会にも変わってくる。船だと船足が遅くなるくらいだが、教会の場合は教会の生命にさえ関わります。

 そこで宗教改革が起こるのです。「聖書に戻れ」という声が聞こえてきます。キリスト教会は聖書に立つ。聖書を読み学ぶところから、教会の改革が始まるのです。アッシジのフランシスコも聖書を読んで、そこから主イエスがしておられたような説教活動を始めました。ルターやカルヴァンの宗教改革も聖書の学びの中から生まれてきました。宗教改革は今日のプロテスタント教会にも必要なのです。名前は改革派であっても、教会が歴史の中を歩む中でいろいろな問題にぶつかり、いろいろなものが付着してきます。傲慢さやファリサイ主義も付着してきます。「聖書に戻れ」という宗教改革の声を繰り返し聞き直していかねばならないのです。

 エフェソ書4章を読みました。ここに私たちが異なる教派の人たちと共に歩む基本が記されています。自分たちの教会だけが正統なものである、自分たちだけが正しく聖書的だとうぬぼれるのではない、と言われています。パウロは、そうではなく「柔和で、寛容の心を持ちなさい」と勧めます。柔らかな心、広い心を持ちなさいということです。そして最も基本的な勧めを語ります。「霊による一致を保つように努めなさい」。現在、キリスト教会は見える形では分裂しています。しかし、キリストの教会は一つです。どんなに別れていても、目に見えないキリストの身体として教会は一つです。キリストの教会は霊的には一つであることを、私たちは信じているのです。それが「聖なる公同の教会を信ず」ということです。パウロは、高ぶりを捨て柔和で寛容な心を持てと命じているのです。