10月21日礼拝説教 「主の恵みの年を告げる」

                   2012年10月21日

聖書=ルカ福音書4章14-21節

主の恵みの年を告げる

 

 ここから主イエスの救い主としての活動が記されます。ガリラヤ湖畔の街々は荒れ野の多いパレスチナの中ではまことに美しい地方です。農産物も豊かに実り、ガリラヤ湖は魚も豊富に取れます。人々の心も穏やかでした。主イエスはここを伝道の出発点とされました。街の人たちも主イエスの活動を歓迎しました。「イエスは霊の力に満ちて」と記されます。この表現は戦いに向かう戦士のように聖霊の力で身を固めていたということです。主イエスは御霊の助けによって悪魔の誘惑に勝利された。主はたくましい聖霊の力を身にまとって伝道活動を始められた。信仰生活で大切なことは聖霊の力によって身を固めることです。その聖霊の力は祈りによっていただきます。私たちも祈りによって聖霊の力をいただき、聖霊の力を身にまとって、毎日の信仰の歩みをしていくのです。

 「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。主イエスの伝道は会堂を用いたものでした。これは後のキリストの弟子たち、初代教会の伝道も同じです。主イエスの伝道活動で会堂は重要な意味を持ちます。会堂、ヘブル語でシナゴーグと言います。会堂は神殿ではありません。シナゴーグは、共に集まる、集合するという動詞「シュナゴーゲー」の名詞形で、集まる場所・集会所を意味します。起源はバビロン捕囚期にあると言われています。神殿が破壊され、多くの人がバビロンに捕囚として連行されました。捕囚の地で自分たちの信仰と伝統を維持していくために、住む所に集会所を作り、そこで律法を朗読し神を礼拝し、また子たちに文字を教え、律法を教育して自分たちの信仰と伝統を守った。

 会堂はバビロンから帰って神殿を再建してからも継続されました。小さな集落ごとに会堂を持った。エルサレム神殿に毎週行けるわけではない。イスラエルの人々は安息日に近くの会堂に集まり律法を朗読して神を礼拝した。パレスチナを離れた離散のユダヤ人の間でも成人男子が10人いれば会堂を持つことが許された。パレスチナ以外でもユダヤ人のいる町には会堂があり、神の民としての信仰と伝統の維持が図られた。やがて後に、使徒パウロが地中海世界の各地を巡って伝道できたのはシナゴーグが各地に存在していたからです。

 会堂の礼拝は、申命記6章4-9節のシェマーの朗読から始まります。詩編による賛美が歌われ、賛美や感謝や願い、執り成しなどを含む18箇条の祈祷文が朗読されます。そして律法と預言書が朗読されます。それから説教がなされます。その日読まれた箇所の解説です。祝祷があり、施しがなされます。今日のキリスト教会の礼拝と似通っていると言っていい。主イエスは多くの会堂で説教し、福音を宣べ伝えられたのです。

 16節からガリラヤとは異なった状況が記されます。「イエスはお育ちになったナザレに来て」と記されます。ナザレは主イエスの育った故郷です。会堂では有名なラビ・律法学者が来ると、説教・律法の解説を依頼することがされていました。主イエスもガリラヤで有名になった律法の教師と見られ、聖書の朗読とその解説が依頼されたのです。渡されたのはイザヤ書の巻物でした。主イエスはその巻物を「お開きになった」と記されています。礼拝は聖書が開かれ、聖書の言葉が語られるところです。礼拝で聖書が読まれている時は、神が直接に語られている時です。今日、多くの教会で聖書朗読の時に、人が動き回っていたり、入室したりしています。しかし、礼拝の中で聖書が読まれている時は、神が直接、今ここで語られているのだということを自覚してまいりたい。

 主イエスはイザヤ書61章を朗読されました。その場にいるすべての人の目がイエスに注がれていました。何を言うか。どんな説教をするか。よく知っているイエスです。大工のヨセフの息子で、仲間として一緒に遊び、学んだ。何を言うだろう、と人々は注目した。主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。主の御霊が臨み油注がれた者とは、まさにこのわたしに他ならないと語ったのです。自分がメシアであるという宣言と言っていい。神の恵みの支配が、今ここにあるということです。まことに大胆な言葉です。

 ここには神が油注がれた者の使命が4つ記されています。1つは「貧しい人に福音を告げ知らせること」。2つは「捕らわれている人たちを解放すること」。第3は「目の見えない人に視力を回復すること」。第4は「圧迫されている人を自由にすること」。これらのことが「今日、実現した」と言われた。「実現した」とは、成就した、満たされたということです。今、あなたがたがわたしの言葉を聴いている、この時に、これらのことが満たされたのだと言われたのです。

 主は、このような「主の恵みの年」の到来を告げたのです。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」と言われてきたものです。大解放の年です。ヨベルの年は50年毎に巡ってきます。売られていた土地や家が元の持ち主に返されます。奴隷に売られていた人が自由を回復し家族の元に帰ります。レビ記25章に記されていることです。このような大解放が50年毎に角笛が吹き鳴らされて行われると約束されていた。神の救いがこのような解放という形で来ることを歴史の中で証言するものでした。ところがイスラエルではこのヨベルは実際にはほとんど行われたことはなかったと言われている。しかし、主イエスは、神が大いなる恵みを与え、自由と救いを回復してくださる時が、今ここに来ているのだと宣言されたのです。ヨベルの年、大解放の年が来た。主イエスはこのことを宣言されたのです。