2012年9月30日
聖書=ルカ福音書4章1-4節
誘惑を受ける
主イエスが悪魔の誘惑に遭ったのは、洗礼を受け聖霊に満たされてヨルダン川から帰られた時でした。これから救い主の働きを始めようというはじめに悪魔の誘惑がなされた。これからという時です。時折、洗礼を受けてすぐに試練に遭う方がおられます。実はほとんどがそうなのではないでしょうか。洗礼を受けてすぐに、どうしてこんな試練に遭わなければならないのかとつぶやく。そして洗礼を受けて数ヶ月から半年、1年のうちに教会を去ってしまう方がいます。熱心に求道して洗礼を受けたのに、いったいどうしたことかと不思議に思います。
しかし、洗礼後すぐに悪魔の誘惑を受けることは信仰の公理のようなものです。主イエスも洗礼を受け救い主の歩みを始める最初に悪魔の誘惑を受けられた。私たちも同様です。洗礼を受け、これから信仰生活を始める。その始めに悪魔の誘惑が待ちかまえている。このことをお互いに自覚しておくことが必要です。受洗直後に悪魔の誘惑に負けて信仰を失い、教会を去ってしまうことが起こるのです。教会もこのことを理解し戒しめ合って行かねばならない。洗礼を受けてすぐの方々がきちんと教会に定着するために教会も考えねばなりません。
「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」。御霊が主イエスを荒れ野へと導き、悪魔の誘惑に引き渡しているのです。この悪魔の誘惑を経て神の勝利、キリストの勝利がなされるのです。信仰生活は決して誘惑や試練から隔離されることではない。むしろ多くの誘惑の中で信仰の勝利を確かにしていくのです。誘惑や試練を受けることは楽しいことではありませんが、信仰が本物になるためにはどうしても必要な課程・コースなのです。砂鉄がハガネとなるためには叩かれなければなりません。運動選手が表彰台で栄誉が与えられるためには長く厳しい鍛錬が必要です。神は愛する者を訓練し鍛えられます。
40日間、主は絶えず悪魔から誘惑を受けられました。主イエスはこの時、何をなさっておられたのでしょう。「何も食べず」と記されています。断食して、深く祈っておられた。寝食を忘れて祈っておられた。祈りの中で悪魔と戦い続けておられた。祈りは戦いです。祈りの戦いの中で、ご自分がキリストであり、その使命をしっかりと受け止められたのです。この後の悪魔との戦いは総仕上げのようなものです。40日間の祈りがなかったならば、主イエスといえども誘惑に勝利することはなかったかもしれません。私たちもまた祈りの戦いが求められています。神から離れさせるような誘惑や試練があります。その悪魔の誘惑に勝利するただ1つの秘訣は祈りです。祈りを忘れると信仰の破れが始まります。いつでも祈り、試みに会った時にはますます真剣に祈ることが求められています。
「その期間が終わると空腹を覚えられた」と記されている。祈りを終えて立ち上がったところで空腹がドッと襲った。悪魔はそこを激しく突いた。「空腹」は人間にとり最も大きな弱さです。空腹には誰もかなわない。この誘惑はまことに人間的な誘惑です。主イエスは私たちと同じ人間として受けた誘惑です。しかし同時に、神の子としての主イエスに対するものでもあった。悪魔は言います。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。パンの問題は人類最大の課題です。主イエスは最も惨めな経験である空腹を体験している。人間は飢える。人間の歴史的課題は飢えて苦しむ人をどう救うかです。悪魔はこう語っている。もし、あなたが本当のメシアであり力を持っているのなら、飢えて苦しむ人に同情するのなら、今こそ、神の子としての実力を発揮すべきではないか。この石をパンに変えて、自分自身を養うと同時に飢えで苦しむ多くの人を救ったらどうだ。それこそがメシアの業ではないかと語りかけているのです。
この誘惑は、今日の私たちへの問いでもある。信仰が危機に遭う時の1つは飢えを直感する時です。リストラに遭って職を失い、明日の糧どころか今日の糧にも苦しむ。こんな時、教会に行って礼拝しても何になるのかという疑問が頭の中に浮かぶ。お祈りしたからといってお腹が一杯になるのかと言いたくなる。そんなことよりアルバイトしたらどうかとささやく。悪魔の誘惑は主イエスだけでなく、今日に生きる私の課題です。
主イエスはみ言葉をもって答えられます。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と。申命記8章3節です。この言葉は出エジプト後の荒れ野の40年間、神がイスラエルの民をマナという食物で養われた出来事との関わりで語られたものです。人間の命はパンによって支えられる。これは大前提です。そして神は神に信頼して生きる者を養ってくださる。これがマナの出来事です。神は私たちの生活をご存知です。神に信頼する者を荒れ野の中でマナをもって養い支えてくださる神なのです。
しかし、もっと重要なことがある。それは神の祝福なしには、パンもパンによって支えられる命も虚しいということです。イスラエルの人々は6日間は朝早く野原に出かけて集めます。しかし、安息日の前日には2日分集めることが命じられた。これは一日たっても腐りません。安息日に集めに出た者は何もありませんでした。神はマナという食物を通して、神に従うことを求めておられます。神のみ言葉に信頼する者は生きることが出来た。神を忘れて、神の言葉に従わないで自分の欲望に従ってパンをどれほど集めても、それは人の祝福とはならないのです。「主の口から出るすべての言葉」、すなわち神の言葉、神に信頼して生きることが祝福なのです。神の祝福なしには一切は虚しいのだと語っておられるのです。