9月23日礼拝説教 「人となられた神の御子」

                 2012年9月23日

聖書=ルカ福音書3章23-38節

人となられた神の御子

 

 長い系図です。こういう箇所は説教者泣かせの所で、どう説教していいのか困ってしまう。しかし、この部分も大切な神の御言葉です。しっかり読み取り、受け止めてまいりたい。

 「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」と記します。ユダヤ社会において責任ある務めを担うことが出来るのは30歳からでした。祭司として神殿で奉仕することが出来るのは30歳からでした。神の特別な務めに召されるのは30歳頃というのが習慣でした。人間としての成熟ということがあったからでしょう。主イエスはこれから救い主としての働きに入られます。その時、実に的確に聖書の言葉を用いて人を慰め、警告され、教えられた。その豊かな聖書の知識は、神の子としての知識というよりも少年時代から忠実に学んで得た知識なのです。また主イエスは人の悲しみに敏感であり、つらさや痛みに対して適切に対応してくださいます。それは人間の持つ多くの問題や課題を同じ人として成長し成熟される中で受け止めていかれたからです。主イエスはまさに人として成熟されたお方として登場されます。

 その後、主イエスの系図が記されています。系図はユダヤ人にとって大切なものでした。とりわけ祭司にとっては大事でした。バビロンから解放されて、エズラやネヘミヤに率いられて多くのユダヤ人がエルサレムに帰ってきた。そして彼らは神殿を再建した。神殿では当然祭司が奉仕しますが、その時、自分はアロンの子孫であると系図によって証明できなかった人は祭司の職を失ったと言われています。主イエスにとっても系図は重要な意味を持っていたのです。

 この系図は「ヨセフの子と思われていた」と記されているように、人間としての父親の役割を引き受けたヨセフの系図です。アダムからイエスまで77人の名前が記されています。この系図は多くが省略されている系図です。マタイの系図と同じように、ルカの系図も装飾されている系図です。アダムからアブラハムまでが21人、イサクからダビデまでが14人、ナタンからシャルティエルまでが21人、ゼルバベルからイエスまで21人となっている。完全数の7の倍数によって整えられた系図です。この数字が表している意味は「満ちる」ということです。この系図が示すのは、「時満ちて」ということです。神の救いの計画の時が満ちたのだということが、この系図が意味していることの1つです。

 次に、この系図が示すことはキリストが人間としての家系を有する歴史的存在であるということです。執筆者ルカが、キリストの系図を記すのは対グノーシスという意図があった。初代教会の時代、ギリシャの神秘主義思想がキリスト教の中に入ってきたグノーシス主義という異端がありました。キリストの肉体性、歴史性を無視しました。このグノーシス主義は、今日でも無関係ではありません。キリストの体である教会を無視して、キリスト教信仰を思想としてだけ考えるのは一種のグノーシスです。主イエスは確かに人となられたお方であり、歴史的存在です。ルカは系図を記すことでキリストの人間としての歴史性を示そうとしているのです。

 第3に、ルカのこの系図はマタイ福音書の冒頭の系図と決定的に違う点があります。マタイ福音書はアブラハムから始まってイエスに至りますが、ルカは逆にヨセフから遡っていく形を採っています。しかもアブラハムで終わらないで人類の共通の祖先としてのアダムにまで至っています。マタイ福音書の関心はイスラエル民族の救いに第一の関心があります。それに対してルカ福音書は系図をアダムにまで遡らせることによって、イエス・キリストを普遍的な人類全体の救いと関わらせて見ていくのです。

 アダムから始まって、目に見えない一本のいのちの糸が人類の歴史を貫いて主イエスまでつながっているのが分かります。わたしたちもまた、アダムからのいのちの歴史の中に置かれているのです。わたしたちもアダムの末裔です。そして、このアダムから続くいのちの歴史は、同時に罪の歴史でもあります。神に従うことなく、自分中心に生きた罪人の歴史の中に、わたしたちもいるのです。そのすべての歴史を踏まえて、主イエスはこの世界に人となられたのです。キリストはまさに、わたしたちすべての人間の救い主となられたのです。

 最後に「そして神に至る」と記されます。正確な翻訳は新改訳です。38節「エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である」。アダムはやはり神の子なのです。キリストが永遠の神の御子ということとはまったく違います。しかし、アダムは神によって造られ、神が御手をもって生み出したものです。そういう意味でアダムは神の子なのです。ところが、神が生み出してくださったアダムが罪を犯してしまった。その結果、アダムからの長い人類のいのちの流れが、罪人の流れになってしまった。

 けれども、アダムから始まる人類のいのちの系列の終わりに、すべての罪人の系列をすくい取るようにして、神は主イエスを生み出してくださったのです。主イエス・キリストは最後のアダムとなられたのです。主イエスは罪人の人類の歴史をすくい取って終わりのアダムとなり、最後まで神に従い抜いてくださることによって、人類の救い主となられたのです。そして新しい神の子らの歴史の始まりとなられたのです。わたしたちは、今や、キリストによって神の子となるのです。神によって造られた人は罪に陥り、神から離れてしまった。しかし、キリストにあって、神はわたしたちをキリストのいのちにあずかり、神に生きる者とされるのです。