9月16日礼拝説教 「主イエスの洗礼」

                        2012年9月16日

聖書=ルカ福音書3章15-22節

主イエスの洗礼

 

 この個所は2つの主題に分けられます。1つは15-20節で洗礼者ヨハネのことが記されます。2つは21-22節の主イエスの受洗です。民衆はヨハネこそ待ち望んできたメシアではないかと考え、口々に「あなたはメシアではないか」と尋ねた。それに対してヨハネは自分はメシアではないと言う。そのことを洗礼において示す。メシアと自分では決定的な違いがある。「履き物のひもを解く」ことは奴隷の仕事です。メシアの召使いほどの価値もない者だと言う。その理由は、わたしは水の洗礼を授けている。悔い改める人に水を注いで罪の赦しの印としていた。これは召使いの務めのようなものだ。自分がしていることはそこまでなのだと言う。

 しかし、メシアは「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。質的な違いがあると言う。「聖霊と火による洗礼」について幾らかの誤解があります。ある教派では、水による洗礼と聖霊と火による洗礼という2種類の洗礼があると理解します。イエスを信じて水による洗礼を受ける。けれどもまだ聖霊と火による洗礼は受けていない。それを受けなければ一人前の信者ではない。熱烈に祈って異言やいやしが出来るようになる。すると聖霊と火による洗礼を受けたと理解する。この理解は問題です。後のキリスト教会もヨハネのしたように水の洗礼だけを授けてきた。しかし、その洗礼は同時に聖霊と火の洗礼であるということです。

 ペンテコステの時以来、水による洗礼は同時に聖霊と火による洗礼であると、正統的教会は理解しています。教会は水による洗礼を授けます。小会がその人の信仰告白を聴いて決議します。教会が授ける水の洗礼は、すでにキリストがその人に聖霊を注いでいてくださる聖霊と火の洗礼の見える印なのです。聖霊と火とは罪を焼き尽くす火という意味と共に、ペンテコステの火のように人を根底から生かす力である神の言葉に満たす暖かな火なのです。キリストを告白するのは聖霊の働きがあってです。聖霊が与えられて主を告白する共に、神と共に生きる者として暖かく包んでくださいます。水の洗礼はもうすでに主イエスがなさっておられる聖霊と火の洗礼の目に見える確証なのです。

 21節からの主イエスの洗礼が記されます。主イエスもヨルダン川のほとりに現れて、ヨハネから洗礼を受けられたと記されています。何気なく「ああ、そうか」と読み飛ばすところです。実はここは「なぜ」と問わねばならないところです。洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていた。悔い改めとは、自分には罪があることを前提にしています。罪があるから悔い改める。悔い改めた印がヨハネの洗礼です。しかし、主イエスは罪のないお方です。神が人となられたお方というだけでなく、生涯、神に従い抜いて罪を犯さなかったただ一人のお方です。主イエスと3年半ほど生活を共にしたペトロがこう告白しています。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(Ⅰペトロ2:22)。

 主イエスは、なぜ、罪を前提とした悔い改めの洗礼を受けられたのか。マタイ福音書にもう少し詳細に描かれています。洗礼を授ける側のヨハネ自身が思いとどまらせようとして言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。それに対して主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになりました。正しいことを行うんだと言われた。罪のないお方が、罪人の受ける悔い改めの洗礼を受けることが、どうして正しいことなのか。

 主イエスの洗礼は、罪人と1つになってくださったというへりくだりの出来事だということです。ヨハネ福音書1章11節に「言は自分の民のところに来た」と記されています。クリスマスの出来事です。主イエスは皇帝アウグストゥスの勅令によって住民登録が命じられた時に、ダビデの町ベツレヘムで生まれた。イエスも一人の人として住民登録された。つまり、罪人である人間の戸籍の中にその名を記された。ナザレの大工ヨセフの子としてその名が記された。そして、これから救い主として公の生涯を始める時に、「わたしはおまえたちとは違う人間だ。神の子なのだ」と言って始めたのではない。罪を悔い改める民衆の中に立ってくださったのです。

 主イエスは、今ここで、罪人が受ける悔い改めの洗礼を受けて下さることによって、主は罪人と一体となってくださった。このようにして主イエスはわたしたちの罪を担われたのです。これこそ正しいこと、つまりキリストをこの世界に遣わされた神の御心の実現でありました。父なる神はこのためにキリストを遣わされたのです。ここから罪人の身代わりとして十字架を担うという十字架への道が始まっているのです。

 「祈っておられると」と記されている。主イエスは救い主として立ち上がられたと言っても、決してローマ皇帝の政治を覆そうともしません。主イエスは、ここから罪人と共にあるという決断と祈りを始められたのです。この主イエスの決断と祈りが父なる神によって良しとされた。それが聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来たという出来事に表されているのです。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。ここから主イエスの油注がれたお方、メシアとしての歩みが始められたのです。メシア・キリストとしての任職式です。主イエスは救い主、メシアとして罪人と一つになることを祈り求めてくださいました。父なる神は、主イエスが罪人と1つとなられたことが「わたしの心、わたしの意志だ」と明らかに宣言されたのです。