9月2日礼拝説教 「救いの前触れ」

                        2012年9月2日

聖書=ルカ福音書3章1-14節

救いの前触れ

 

 皇帝、王、大祭司の名が記されます。この記述から主イエスが救い主として活動を始めたのは西暦紀元後28年、あるいは29年頃と推測します。時が告げられた後、ルカは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と記す。「降った」は口語訳「臨んだ」が適切です。神の言葉がヨハネに臨んで具体的な働きをした。「臨んだ」とは、旧約預言者によく用いられている言葉です。例えば「主の言葉がわたしに臨んだ」(エレミヤ書16:1)と。「臨んだ」とは、主なる神が預言者を召し出す言葉です。

 どうして、すぐにイエス様が登場しないでヨハネの活動が記されるのか。ヨハネは主イエスの先駆けと言われます。どういう意味で先駆けなのでしょう。聖書学者は、洗礼者ヨハネの存在は新約聖書の中に入り込んでいる旧約聖書であると言います。旧約最後の預言者マラキから400年にわたって預言の言葉が絶えていた。イスラエルの人たちはもう再び生ける神の言葉を聴くことは出来ないだろうと思っていた。しかし今、イスラエルの人たちは預言者の力強い言葉を聴くのです。洗礼者ヨハネを通して神の言葉が語られたことが救い主の先触れなのです。

 神の言葉は荒れ野でザカリアの子ヨハネを預言者として召した。神の言葉は場所を選びません。神の言葉が人を召すのは荒れ野です。荒れ野は、なにもないところ、緑の木も泉もない、荒れ果てたところです。これは決して場所のことではありません。演歌の中で「東京砂漠」という言葉が出てきます。草も木もある東京です。しかし、住む人々の心は荒れ果て砂漠化しています。東京だけでなく日本中の人の心が荒れ果てています。

 荒れ野のように砂漠化した人々の心に神は新しい言葉を語りかけてくださるのです。福音書記者ルカはイザヤ書を引用して語ります。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と。福音書記者ルカは、人の心を砂漠化させているのが、この世界を権力をもって支配している人たちであることを暗黙のうちに語ろうとしている。それが為政者たちの名前を挙げている本当の理由です。皇帝、総督、領主、大祭司と呼ばれる人たちです。今日の言葉で言えば権力を握っている政治家です。政治の指導者によって人々は痛めつけられ、貧しくされ、望みのないようなささくれだった世界になっている。昔のことではありません。いつの時代でも、人の心を荒れ果てさせる最も大きな責任が政治の責任者たちにあると言っていいでしょう。

 人の心を荒れ野のようにしているのは政治家だけの責任ではありません。私たちも同じ醜さと汚さとを持っている。私たちもこの世界を荒れ野とさせている責任がある。荒れ野のままでは「神の救いを仰ぎ見る」ことは出来ない。そこで神はヨハネを召されたのです。ヨハネは人々の心の中にすさまじい悲惨な荒れ野を見た。荒れ野は荒れ野のままであってはならない。道筋がまっすぐにされ、でこぼこの道は平らにされなければならない。

 ヨハネは旧約預言者たちと同じように悔い改めを求めた。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。ユダヤ人は自分は神の民である。終末の裁きの時に、異邦人は裁かれるが自分たちは救われると思っていた。それは「我々の父はアブラハムである」という信仰を持っていたからです。実は誤った信念でした。アブラハムとは「神を信じた人アブラハム」です。神を信じて義とされたアブラハムとその信仰を継ぐ者を顧みてくださるという約束です。それを血のつながりと誤解した。これは何の助けにもなりません。

 キリスト教でも同じです。以前、おじいさんは牧師だったという人に出会いました。戦前、その方のおじい様がどんなに牧師として活躍されたかをお話くださいました。しかし、その方は信仰を持っていません。お父さんの代までは何とか教会と関わりがあった。しかし3代目の自分になると完全に教会からも信仰からも離れてしまった。日本では3代目がきちんと信仰を継ぐことが出来るかということが最大の課題です。おじい様がどんなに熱心な牧師であっても、子孫の一人ひとり神との関係をきちんと持ち続けなければ救いはないのです。

 ヨハネはユダヤの人々に神に立ち帰らねば滅びるのだと語った。「悔い改め」とは「帰る」という意味です。Uターンすることです。出てきたところに戻ることです。悔い改めとは何か特別な苦しい業、苦行でもない。神を認めて神のもとに帰ることです。悔い改めについての質問に対するヨハネの答えはきわめて平凡なものです。

 「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と教えます。隣人としての普通の愛を持てと言うことです。徴税人に対しても「規定以上のものは取り立てるな」と言う。兵士にも「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と勧めるだけです。何だそんなことかと思うかもしれません。悔い改めよ、と言うからには全財産を施し、徴税人などという職を放り出し、兵士などという仕事は辞めてしまえ、とラディカルなことを勧めると思うかもしれません。しかし、そうではありません。ヨハネは不可能なことは勧めない。特別なことは求めないのです。神に立ち帰ること、自己中心ではないということです。ここからすべてが始まるのです。自己中心を捨てて、神を見上げるところから隣人と共に生きることが出来るようになる。神に立ち帰ることが基本です。普通の生活の中で、神を認めて、神に従って生きることが悔い改めの生活なのです。