8月26日礼拝説教 「自分の父の家」

                      2012年8月26日

聖書=ルカ福音書2章41-52節

自分の父の家

 

 「アイデンティテイ」ということを念頭に置いてお話ししたい。心理学の用語ですが「自己の確立」とか「自分とは何か」というような意味の言葉です。10代前半、中学生の時代、荒れる場合があると言っていい。私も中学生時代、何で自分はこんな家に生まれてきたんだと思って荒れ、学校に行かなかった時期があります。高校生になるとケロッと治ってしまった。誰でも多かれ少なかれ「自己の確立」の問題で苦しむのです。大人は自分も通ってきた道として理解してあげねばなりません。

 「イエスが12歳になったとき」と記されています。12歳と記されるのには重要な意味があります。この時代のイスラエルでは13歳になると一人前の大人として扱われます。所属する会堂の会堂長の前で律法の一部を朗読させられます。やがてそれがバルミツバと言う律法を朗読するテストの習慣となります。これを終えると大人として認められ、律法の義務を果たすことが求められるようになります。欧米の教会でも幼児洗礼を受けた子は13,4歳で信仰告白をし一人前の会員となって聖餐を受けるようになる。中学生くらいの時期です。日本ではこの時期を高校受験などで失ってしまう。中学生で信仰告白や洗礼を受けたら、「ずいぶん早いね」と言われるほどです。しかし、信仰を持つには小学生の上級から中学生の時期が非常に大切です。この時期に自己の確立がなされるからです。

 ユダヤ人の父親は息子に12歳までに必要な準備教育を施しました。子供は4歳くらいまでは母親の保護の元におかれます。女子の場合、4歳になると母親の元で家事を習います。食事の用意、水運び、羊毛を紡いで織るという女一通りのことを学びます。男子の場合、4歳くらいから父親が教育を担当します。父親は仕事の手伝いをさせます。また最初の宗教教育を施すのも父親です。このような家庭と仕事場での教育と共に学校の教育もありました。会堂の教育です。5歳になると金持ちの子も貧しい者の子も平等に会堂の教育を受けさせました。教師は会堂長やラビ、長老が務めます。教師は神の使いと言われ、教師が読み上げていく聖書の言葉を一語一語暗記していくのが主な教育法でした。その中で文字や文章、歴史や文学、社会の仕組みや掟などを学びました。教科書は旧約聖書です。

 13歳で成人となる前、12歳の時いわば卒業演習みたいにして父は息子を神殿に連れていく慣習でした。主イエスも12歳になった時、両親に連れられてエルサレム神殿に上った。町の人はグループを作って行きます。巡礼団のようなものです。神殿礼拝や過越祭の祭りを終えて「帰路についた時、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」。ずいぶん迂闊な親だなあと思うかもしれない。一行は、足の弱い女子供が早く出立する。男たちはゆっくり旅立ちます。数時間の間があるが帰り着く頃には一緒になっている。マリアはイエスが男たちと一緒だろうと思っていた。ヨセフは母親と一緒だろうと思いこんでいた。夕方、ナザレの家に着いて、はじめて息子がいないことに気づいた。

 居なくなったことが分かってから、両親の不安はたいへんなものだった。子に対する親の思いは昔も今も変わらない。夜も眠らずにあちこち探しながらエルサレムに戻った。神殿の中でイエスの姿を見た時、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と叱ったマリアの気持ちもよく分かります。

 ここで大事なことは、母マリアの言葉に対する息子イエスの返答なのです。マリアがイエスに対して思わず叱った言葉は、文字通りに訳すと「息子よ、なぜ、あなたはわたしたちにこんなことをしたのですか」となります。「息子よ」という呼びかけの言葉が新共同訳では省略されている。省いてはならない大事な言葉です。イエスにすれば、「息子よ」という呼びかけの言葉を自分の本質を問われた言葉として受け止めたのです。イエスは「息子よ」という言葉に深くこだわった。自分は誰の子か、「自分は何者か」ということです。少年イエスは、長い間、このことを考えてきた。イエスはここで自分のアイデェンティテーを問われたのだと受け止めたのです。自分は何者であるかという自覚を深く促されたのです。

 イエスは答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。実は「家」と訳されている言葉はないのです。古い英語の翻訳(KJV)では、主イエスのこの御言葉を「わたしはわたしの父の仕事をすべきことをご存じないのですか」と訳しています。原文通りに訳すと「わたしはわたしの父の事柄の中にいるのをご存じないのですか」となる。

 主イエスは、いつの頃か、ご自分と神との特別な関係を自覚されたに違いありません。成長してヨセフから仕事を教わりながら神の言葉を聞き、会堂で律法の学びをする中で、父なる神との特別な関係を自覚していった。大人の仲間入りするという時期にきて、自分が特別な意味での神の子であること、神の子としてのなすべきことを自覚していったのです。主イエスは、ヨセフの家で成長し、ヨセフの仕事である大工仕事を見習ってきた。しかし、今、イエスはご自分の真の父を理解したのです。マリアが「あなたのお父さん」と言ってヨセフを指した時に、イエスは「わたしの父はここにいる」と言ったのです。真の父の働いておられるところで、子もまた働くのだ。ヨセフに仕事を習ったように、真の父のおられるところで父なる神の働きをご覧になられていたのです。主イエスは、12歳の時のエルサレム訪問の中でご自分のアィデンティティに目覚められたのです。