8月5日礼拝説教 「あなたの救いを見た」

               2012年8月5日

聖書=ルカ福音書2章25-40節

あなたの救いを見た

 

 主イエスの両親が主イエスを連れて長子の贖いなどの儀式を行うため神殿に登った時です。「そのとき、…シメオンという人がいた」と記されています。シメオンの年齢は記されていないが老人であったとされています。もう一人、アンナという女性が登場します。彼女については年齢がはっきりしています。「非常に年をとっていて、…夫に死に別れ、八十四歳になっていた」と記されています。今日の日本では84歳は「非常に年を取っていた」などと言えません。しかし、この時代のイスラエルでは50歳が高齢でした。日本でも70歳は古来まれ・古稀です。84歳は本当に高齢でした。キリスト誕生を巡る出来事の中で、救い主の到来を心から賛美した人の中に2人の老人がいたことを覚えなければならない。

 今日、教会員の高齢化が言われます。高齢化はマイナスのように思われています。しかし、教会を本当に守っていて下さるのは、実はいつの時代でもお年を召した方々であることを覚えなければなりません。キリスト教国と言われているヨーロッパの古い大きな教会の礼拝を守っているのは高齢者です。現在のヨーロッパの教会の一面を示しています。東ヨーロッパ、ロシアなどでは若者が教会にもう一度集まってきていると言われています。長かった共産党政権時代に閉ざされていた教会堂も修復され、ロシア正教が生き生きとした礼拝を回復していることが知られています。少し前、ソ連の支配下にあった時代、教会は弾圧され、若い人は共産党の青年同盟の方に行ってしまった。そういう教会の冬の時代、だれも教会に来なくなってしまったような時に、教会の集会を支えていたのはお年寄り、おじいさん、おばあさんと言われる人たちでした。

 これは決して他国のことではない。70年前の戦中の日本の教会の姿も同じでした。若い人たちは戦場に行くか勤労動員でした。教会に行く者は非国民と呼ばれ、牧師も召集を受けたり、勤労動員で日曜日も狩り出された。その時に、教会を守ったのはお年寄りでした。戦時中の教会はお年を召された人たち、特に婦人たちによって集会が守られたのです。私たちはこのことを忘れてしまってはならない。教会の長い歴史は、決して有名な神学者や牧師たち、意気盛んな人たちによって支えられてきたのではありません。何の力もないと思われるようなお年寄りたちによって今日に至るまで信仰のいのちが保たれているのです。このような信仰の炎を燃やし続けるお年寄りの先頭にいるのがシメオンとアンナなのです。

 シメオンは以前から聖霊による示しを受けていました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げです。この示しが、いつ頃与えられたのかは分かりません。「決して死なない」という言葉から考えると、ある程度の年齢が行ってからのことでしょう。自分の人生を考え、残されている時間を考え測るようになった頃のことでしょう。お告げを受けて以来、彼はずっと神殿から離れなかった。いつだろうか、いつだろうか、自分に残された時の少なさを考えると、焦りも感じていたのではないでしょうか。そして今、神殿に入ってきた幼子を抱いて確信した。この幼子こそ、救い主だと。

 シメオンは今、腕の中に幼子を抱いています。幼子の名前はイエスです。「神は救い」という名を持つ幼子。この幼子を見て「安らかに去らせて下さいます」と言う。自分は人生の究極の目的を得たのだと語っているのです。神よ、私を召して下さって結構ですと言っている。シメオンは安んじて、平安の内に死ぬことが出きると言う。平安をもって生涯を閉じることが出来る。それが「主よ、今こそ安らかに」という言葉なのです。

 シメオンがこのように語ることが出来たのは、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。「あなたの救い」とは、神が与えてくださる救いです。罪と滅びの中から、神と共に生きる永遠の命へと救い出してくださる救いです。「わたしは、その救いを見た」のだと言う。「見た」とは、チラッと見たとか、ぼんやり見たのでもない。見えないものを見るという洞察を含んでいます。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ福音書14:9)という人格的な洞察を含む。さらに「見る」は体験をも含む。感じ取る。実感する、そういう見るです。しかも一瞬の体験ではない。ずっと継続している。幼子を抱きしめたのは一瞬と言っていい。しかし、感じ取った重さ、その感動、その感触がシメオンの残りの生涯を貫いていくのです。このような意味を含んで「わたしは見た」のだと語っている。

 カルヴァンの作ったジュネーブ教会信仰問答という信仰問答書があります。その第1問答はこうなっています。問1「人生のただ一つの目的は何ですか」。答「神を知ることです」。私たちの人生はただ漫然と時を過ごすのではない。人生は1つの焦点を持っている。人は、その人その人さまざまな活動や目的を持って生きる。しかし、人生には焦点があるのだ。その焦点とは「神を知ることだ」というのがカルヴァンの理解です。救いの神、キリストを知ることが、だれであっても人生の最大の課題であり人生の焦点なのだ。これさえしっかり握ったら、人生の課題をクリアーしているのだと申し上げていい。どれほど人間的に偉大な業績を上げても神とキリストを知ることがなかったら、その人生は完結していない。反対に、神とキリストを知った人はどのような境遇を送っても、その人生は完結しているのだと申し上げていい。シメオンと同じように、安らかに去ることができるのです。神とキリストの十字架の救いを知ったならば、人生の究極の目的を知ったのだ、生きる目的をつかんだのだと確信していいのです。