7月15日礼拝説教 「受け入れられない救い主」

             2012年7月15日

聖書=ルカ福音書2章1-7節

受け入れられない救い主

 

 クリスマスは日本では世間一般で祝われます。キリスト者でない人もクリスマスには祝いの時を持つ。日本中がキリスト教国になったかのような感じがします。しかし、皮肉なことにクリスマスの聖書個所は「拒否されたキリスト」を語るのです。

 皇帝アウグストゥスは、紀元前27年から紀元後14年まで約40年間、帝政ローマの初代皇帝として君臨しました。名前はオクタヴィアヌスです。アウグストゥスとは「尊敬されるべき者」という意味で、ローマの元老院から贈られた称号です。住民登録は、当時も今日も支配者が税金を取り立て徴兵や労役を課すためのものです。ローマの初代皇帝として全領土で住民登録を実施したのはそのためです。

 そのような中で、1つの出来事が静かにひそやかに起こっていました。「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。昔からユダヤでは嗣業の地というものがありました。言わば本籍地です。ダビデ家の家筋の者たちはベツレヘムをその街として定められていました。この住民登録のために、この時、ベツレヘムはごった返していました。

 その騒ぎの中に、一組の若い夫婦が到着しました。ヨセフと許嫁の妻マリアです。彼女は身ごもっていました。まもなく「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」のです。ひっそりと幼子が生まれた。ベツレヘムの町の人はだれひとり気付かなかった。町の人たちはこの子が産まれたことにも無関心です。マリアから産まれた赤ちゃんには、最低限の待遇さえも用意できなかった。まことに貧しく卑しいと言える状況の中で、主は地上の生を受けられたのです。これがキリストと呼ばれるイエス誕生の状況です。祭司ザカリアから「主なる神ヤハウェの訪問」として預言された出来事です。神の訪問がこのような形でなされたのです。

 なぜ、神はこのような秘やかな形でこの世界を訪問されたのでしょうか。救い主としてこの世界を救うというのであったら、もっと違う形があったのではないでしょうか。人々の注目を集め、人気者になり、多くの人たちの力を結集して救い主としての業を行ったらどうでしょう。政治の権力、軍事力を借りて、あるいは経済力を借りて、救い主になったらどうでしょう。後に、主イエスはこれらの一つ一つを明確に拒まれます。これらの道は主イエスの救いの道ではないからです。主イエスの誕生の前から、神ご自身が罪人の救いをご計画になられたときから、神ご自身が選び定めておられた道があるのです。神の定められた救いの道は、「信じる者を救う」道です。貧しく卑しい姿の主イエス、弱く力のない人の子イエス、低くなられた主イエスの中に神を見る信仰が求められるのです。まことに貧しい主イエスの中に神の到来、神の訪問を読み取る信仰が求められているのです。

 キリストの誕生は、世間の人が考えるような形での誕生ではありませんでした。その身を危険にさらすようにして救い主はこの世に来られたのです。誰にも知られないような形で、秘かにこの世に潜入するようにして救い主は人となられたのです。本当に弱い赤子として、殺そうとすれば殺してしまうことが出来る風前の灯のようにして、キリストは人となられたのです。まことの救い主は英雄や凱旋将軍、皇帝や王様のように自分を際だたせるような仕方でこの世に入られたのではありません。救い主は罪の故に弱く、悩む人々と同じ立場に身を置くためでした。人々の中に入って、人々とまったく同じ者になりきろうとしました。そのために人目につかず、貧しさの中でひっそりと人となられたのです。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と記されています。ベツレヘムの街にはこの一組の親子を泊めてあげようという家が一軒もなかった、とルカは記しています。象徴的な表現です。この一言は、救い主の誕生を巡る出来事についての福音書記者ルカの結論的な言葉です。救い主親子を迎え入れてくれる家はなかった。歓迎されなかったのだと述べているのです。これは救い主の誕生の時だけのことではありません。貧しく人となられたお方は、この世の人々に簡単に理解され、受け入れられるものではありません。今日、クリスマスには大勢の人が誕生を祝っているかのように見える。しかし、本当に貧しさの中に人となられたキリスト誕生の意味を分かる人は一握りです。気付きにくい、判りにくい救い主でした。それは人間を罪と滅びのどん底から救い上げるためであったからです。

 トラクト配布をしますと、時折、訪問販売と間違われて「間に合っていますよ」と言われることがある。この言葉はたいへん象徴的な意味を持つ言葉だと思っています。今日、多くの人に福音を伝えても、なかなか受け入れられません。それは世の人たちが自己充足しているからです。自分たちは今のままでいい。経済さえ安定してくれたらそれでいい。そう考えて、神が与えようとしておられるまことの救いに気付かないでいます。あえて気づこうとしないのです。 しかし、ヨハネ福音書はこう語るのです。ヨハネ福音書1章11,12節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。貧しく人となられた救い主を、その心の中に受け入れる人、信じる人は神の子とされるのです。