2012年7月8日
聖書=ルカ福音書1章57-80節
見えてきた神の恵み
神の恵み深い取り扱いが次第に展開していく、はじめは分からなかった事が次第にはっきりしてくる。神のお取り扱いの道筋です。ここには主イエス・キリストの先駆けとなった洗礼者ヨハネの誕生物語が記されています。不妊の女と言われていたエリサベトが男子を産んだ。子の誕生は両親より周囲が大騒ぎする。けれどザカリアとエリサベト夫妻にとっては信仰にかかわる重大な時でした。ザカリアは子が与えられるとの天使の御告げに対して不信仰な受け答えをした。そのため話すことができなくなっていた。しかし、ザカリアの不信仰にもかかわらず、神は子を与えて下さった。この神の恵みにどう答えるかが問われている。子が産まれたと言って喜んでだけいるわけにいかなかった。信仰が問われる時が来たのです。
子に割礼を施し、名を付ける時が来ました。一族の男たちがきて、ああだこうだと言いながら割礼を行った。続いて名付けです。ザカリアはものが言えないから、親族が取り仕切っていこうとします。祭司は伝統の職務です。産まれてきた子にその父親の名を付けることは決して悪いことではありません。ところが、今まで奥に引っ込んでいた母親のエリサベトが飛んできて「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と主張した。信仰が問われる大事な時と察して「その名はヨハネ」と主張した。
ところが親戚たちも引っ込みません。そんな名前は先祖にはないと言う。ヨハネという名前自体は珍しい名前ではありません。しかし、その家々で特色ある名前があった。そこで父親であるザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねた。父親は書き板を出させて「この子の名はヨハネ」と書いた。これは彼の信仰の告白です。この子の誕生は普通の出産ではなく、神の恵みの結果であり、神の憐れみであることを信じた信仰の告白でした。さらに神が自分たちの長年の祈りに応えてくださったことへの感謝の表明でもありました。
命が母胎に宿り出産まで十月十日と言われます。10ヶ月の長い強制的な沈黙の時間はザカリアにとって無駄ではなかった。信仰の従順を学んだのです。この間はザカリア夫妻にとり苦しい時でした。この沈黙の間、苦痛の間に、神は自分たちの祈りを聞いていて下さり、神に従うことこそまことの幸いであることを悟ったのです。信仰者にとり苦しみの時は決して無駄なものではありません。詩編119編71節に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたの掟を学ぶことが出来ました」(口語訳)とあります。苦しみは辛いことですが、それを通して神の御心を学び悟っていくのです。キリスト者にとっての苦しみの意味がここにあるのです。
「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した」と記されています。宗教改革者ルターは「不信仰が沈黙せしめた人を、聖霊が預言者に変えた」と注釈しています。ルターはザカリアが預言者になったと理解したのです。祭司は伝統保持者です。昔から決まっていることを頑固に忠実に守り通すのが務めと言ってもいい。それに対して新しい時代状況の中で、新しく神の声を聞き取っていくのが預言者です。彼の言葉は預言の言葉です。「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」。
神がアブラハムに与えられた契約が思い起こされた。多くの有名・無名の神の人たちが、やがて神が罪人を救って下さるという神の約束を語ってきた。救い主が来られることを預言してきた。今、その言葉の通りになったと語っているのです。
ザカリアは「主はその民を訪れて解放し」と語ります。「訪れる」と言います。神が見てくださるだけでもすばらしい。それだけではない。神が人間の世界に入り込んでくださる。御自分の民のところに訪ねて来てくださるということです。神の訪問です。神ご自身が罪人の人間の世界を訪問して下さり、救い出して下さる、解放してくださると語るのです。ここに3つの動詞があります。「訪れた」、「解放した」、「起こされた」。いずれも過去完了です。もうすでに起こってしまったかのように語っている。これを預言者的過去完了と言います。
神の訪問が、先ず自分のところから始まった。自分のところに神が訪ねて来て下さったと受け止めている。祈りが聞かれないとあきらめていた自分の不信仰を吹き払って下さった。次に、この神の訪問こそ、言うまでもなく、イエス・キリストの到来を意味しています。「救いの角」とは、力強い救い主のことです。キリストの誕生において神が訪問して下さった。ザカリアは新しい事態を預言する預言者として、驚くべき神の訪問の出来事を預言しているのです。
ヨハネ黙示録3章20節に、神の訪れの姿が描かれています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、…」。ホルマン・ハントという画家は、この個所から題材を採って「世の光」という絵を描きました。茨の冠をかぶったキリストが蔦のからみついている家の戸の外に立って、左手にランプを持ち、右手で戸を叩いている絵です。キリストにおいて、神がこの世界に、わたしたち一人一人の元に訪れていて下さるのです。十字架による罪の赦しを携えて、わたしたちのところを訪問してくださいます。キリストは今、わたしたち一人一人を訪ねてくださり、心の扉をノックしていて下さいます。