6月17日特別伝道集会 礼拝説教 「信じる者の幸い」

            2012年6月17日

聖書=ルカ福音書1章39-45節                          

信じる者の幸い

 

 「幸い」について広辞苑では「運がよく、恵まれた状態にあること」と記します。「運良く、恵まれた状態」を目指して、人は激烈な競争をする。司馬遼太郎に「坂の上の雲」という時代小説があります。身分制社会であった封建社会、幕末から明治の解放された時代状況が描かれています。人は誰でも身分や出身に関係なく努力したら上に登れる上昇気流が描かれています。その結果、努力したら幸福を得られると今日の競争社会が現れてきました。最近は、この上昇気流がもう一度考え直されていると言っていいでしょう。お金があっても、よい学校を出ても、それだけで幸福ではないと多くの人が気づいてきたと言っていいでしょう。

 聖書でも「幸い」という言葉がよく用いられます。聖書の「幸い」と訳された言葉は広辞苑が記す意味とは異なります。ヘブライ語「アシュレ」、ギリシャ語「マカリオス」という言葉です。いずれもほぼ同じ意味で「神の祝福を受けた者」です。お金が儲かった、よい学校に入った、よい会社に就職したなどではない。「神の祝福を受けたか、どうか」です。神の祝福を受けるとは、神の国に入ることと言っていいでしょう。聖書の語る「幸い、幸福」は、神の祝福を受けて神の国に入ることができる。それが幸いなことなのです。

 「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」。なぜ、マリアが出かけたのでしょう。彼女は天使ガブリエルから「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と知らされました。本当だろうかという疑いの気持ちで様子を見に行ったのでしょうか。人が急ぎ足で歩く時には何かの理由があります。不安があったのか。心配があったのか。急いで出かける理由があったのです。

 47節からマリアの賛歌が記されています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。マリアが急ぎ足でエリサベトのところに出かけたのは、神を喜ぶためと言っていいでしょう。さらに48節では「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と歌っています。「身分の低い」という言葉を、宗教改革者ルターは「無に等しい者」と訳しました。ルターは、マリアの謙遜とかへりくだりという徳を神が顧みてくださったのではなく、まことに無に等しい、神に顧みられる値打ちもないようなマリアに目を留めてくださったと理解しています。

 マリアは、神が自分に目を留めてくださったことを素直に喜んでいる。マリアがエリサベトのところに急いだのは、神が同じように顧みてくださったエリサベトに会い、一緒に神を喜びたたえるためでした。喜びにせき立てられて、喜びを共にするために、エリサベトのところに出かけて行った。信仰とは神を喜ぶことです。神が自分を顧みていてくださる。このことを知るところで心の中に喜びがわき上がる。キリスト者の生活は、自分を顧みてくださる神を知って、神を喜ぶ信仰生活です。

 このマリアの喜びの声を聞いたエリサベトは聖霊に満たされて声高らかに言います。「あなたは女の中で祝福された方です。……主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。エリザベトはマリアの幸いを、ここに見たのです。この箇所は「幸いなるかな、信じた女よ」と訳していい。わたしたちは何を幸いと考えるでしょうか。お金持ちは幸いだと考える人もいるかもしれない。しかし、イスラエルの人たちはそう考えなかった。少なくとも聖書の幸い理解は違います。

 先ほど旧約の詩編第1編の初めの部分を読みました。そこに伝統的な聖書の幸い理解が記されています。一口で言えば、律法に従って生きる者の幸いです。律法を愛し、律法を守って生きるところに神の祝福があるという理解です。エリサベトも子供の頃から教えられてきました。

 しかし、今、エリサベトは律法を守って生きる幸いではなく、信仰に生きる者が幸いだと語るのです。新約聖書は信仰に生きる者の幸いが語られているのです。その信仰は何でしょうか。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」信仰です。神の言葉の実現を信じる信仰と言ってよい。しかし、ただ神の言葉の実現と言うだけのことではない。その奥にあり、根底にあるのは約束を与えてくださった神への信頼です。神への信頼こそ信仰の本質なのです。マリアに約束を与えてくださった神への信頼としての信仰は決してマリアだけのものではありません。旧約聖書には、アブラハムの信仰が記されています。アブラハムも神の約束を信じた人でした。年老いているにもかかわらず、なお子供が与えられることを信じていました。1坪の土地も持たないにもかかわらず、約束の地が与えられることを信じていました。約束を与えられた神を心から信頼していたのです。

 わたしたちに求められている信仰も、神信頼としての信仰です。祈りは聞かれると約束されている。その答はまだ見ていない。しかし、わたしたちは神に信頼して歩むのです。忠実に祈りの生活をし、神を礼拝して生きるのです。わたしたちは神が生きて、歴史を支配しておられ、祈りに耳を傾けて下さるお方であることを信頼して、神信頼としての信仰を貫いてまいりたいのです。神に愛されていることを知って、神に信頼することです。神には出来ないことはないと、素直に信頼して歩んでまいりたい。