2024年4月14日礼拝説教「教え、宣べ伝え、いやされて」

 

聖書箇所:マタイによる福音書4章23~25節

教え、宣べ伝え、いやされて

 

 主イエスは直前の箇所で4人の漁師たちを弟子とされました。こうして弟子たちを得た主イエスの、その後の宣教活動が本日の箇所において記されています。宣教活動の内容は23節において完結にまとめられています。この活動の結果、主イエスの評判はシリア中に急速に広まりました。シリアは、パレスチナを含むローマ帝国の属州の名前です。かなり広い範囲に主イエスの名声が届いたことが分かります。それを聞いた人々は、主イエスのもとに集まってきました。彼らは主イエスのいやしを求めてやってきました。「いやし」に対しては、二つの極端な主張があります。一つはいやしをことさらに強調し、主イエスを信じて従えば病気はいやされるという主張。もうひとつはいやしを非現実的とみなし、このようないやしは起こるはずがないという主張。こうしてしばしば「いやし」は議論の的になります。

 そこで本日はまず、この箇所における「いやし」がどのような意味を持つかを考えます。この箇所において主イエスがいやされたのは、非常に広範囲におよびます(23、24節)。単なる病気だけではありません。苦しみや悩みもまた、主イエスはいやされました。ここで着目したいのが、てんかんと中風です。マタイ福音書においてこれらは、悪霊や罪による抑圧や支配と結びついています(9:5、17:15)。悪霊も罪も、人を支配しようとする神以外の存在です。このような神以外のものに支配され抑圧される悩みや苦しみを、主イエスはいやされたのです。これが、主イエスが宣教活動のなかでなされたいやしです。

 もちろん宣教活動のなかで主イエスがなされたのは、いやしだけではありません。いやしに先んじて、主イエスは御国の福音を宣べ伝えられました。そして御国の福音を宣べ伝えることに先んじて、主イエスはまず諸会堂で教えられました。主イエスが諸会堂で教えておられたのは、トーラー、すなわち旧約聖書に記された神の言葉です。いやしも、救いをもたらす御国の福音も、その土台は聖書の御言葉にあります。御言葉を脇においた福音はありません。御言葉を無視した「いやし」は聖書の語るいやしではありません。日々の悩みがなくなったからといって、それで人が救われるわけではありません。病気が治ったからといって、それだけで人が救われるわけではありません。人が救われるのは、御言葉をとおして主イエスキリストを信じる信仰です。そしてこのお方を信じ、その教えに従うことをとおして、人々は神以外の支配から解放されていやされるのです。教え、宣べ伝え、いやすというこの3つの活動は、互いに結びついています。

 さて、本日の御言葉の最後を見ますと、この宣教活動により大勢の人々が主イエスに従ったことが記されています。これがこの宣教活動の結論です。決して、人々がいやされて元気になったことが結論ではありません。いやされた人々が主イエスに従ったのは、このいやしが神以外の支配からの解放だからです。神以外の支配からの解放と聞いたとき、何者にも支配されない自由を想像した方もいらっしゃるでしょう。しかし何者にも支配されない状態で、人は生きることができません。誰かの言葉、世の空気、こう生きるべきだという風潮など、何かしらの支配のもとに人は生きざるを得ないのです。それゆえ神以外の支配から解放された人々は、必然的に神の支配に入ことを意味します。そして地上において神の支配に入るとは、神の子である主イエスに従うこととイコールです。このお方こそが、神の言葉を正しく教え、それを実践されるお方だからです。

 ところでこの「従った」という言葉は、直前の箇所において漁師だった弟子たちが主イエスに従った際にも用いられた言葉です。直前の箇所と今日の箇所では、どちらのお話においても新たに神のご支配である天の国のメンバーとなる人々が起こされました。違うのは、その広がりです。25節にその地名が挙げられています。これらの地域に24節のシリアを加えれば、イスラエル全土が含まれます。主イエスの宣教活動により、主イエスの教え、福音宣教、そしていやしが、イスラエル全土に広がったのです。そして主イエスは、マタイ福音書の最後において、すべての民を教え、主の弟子とするよう命じておられます(28:19〜20)。主イエスのお働きによって、教えと福音といやしがイスラエル全土に広がりました。同じように、主イエスにいやされて天の国のメンバーとなった人々をとおして、今度は全世界に主イエスの教え、主イエスの福音、主イエスのいやしが広げられていくのです。そしてその働きをする人々と、主イエスキリストはいつも共にいてくださるのです。この大きな主イエスキリストの福音宣教の働きの最前線に、今、わたしたちは立っているのです。

 

 今なお神以外のものに支配され、それゆえに悩み苦しむ人々がわたしたちの周りにはいます。そのような人々に、御言葉を教えることをとおして、わたしたちは主イエスキリストのいやしを実現するのです。教えるといっても、決して主イエスを信じない人々に頭ごなしに御言葉を投げつけて責任を問い、滅びを宣告し、重荷を負わせるのではありません。むしろ人々の悩みや患いを理解し分かち合いながら御言葉を語り、主イエスに従うことへと招くのです。こうしてわたしたちは、神以外の支配から解放するいやしを人々に携えていくのです。そして何よりも、この働きをするわたしたち自身が、主イエスの教え、福音の良い知らせによっていやされ、解放された者であるということを今日改めて覚えたいのです。主イエスの教えによっていやされ解放されたこの喜びを、主イエスのご命令に従って、わたしたちもまた人々に携えていこうではありませんか。