2024年2月25日礼拝説教「足りない者の祈り」

聖書箇所:創世記32章2~22節

足りない者の祈り

 

 故郷のカナンへと旅を進めるヤコブに、突然神の御使いたちが現れました。このことがある注解書には、ヤコブの旅路に神が共にいてくださることの証だと解説されていました。神が共にいてくださるならば、ヤコブは向かうところ敵なしであり、何も恐れることはないはずです。しかし今日の場面においては、極度に恐れるヤコブの姿が記されています。神が共にいてくださるにも関わらず、目の前の事態におびえてしまう。その良し悪しは別にして、これが神の民の現実の姿です。ヤコブがこれほど恐怖しているのは、兄エサウとの再会が迫っているためです。かつて自らに殺意を向けた相手との再開ですから、怯えるのは当然です。一方でこの状況を招いたのは、ヤコブ自身のかつての行動に原因があります。身から出た錆です。このときのヤコブは、かつての自らの行為、かつての自らの罪と向き合うことを迫られています。

 この状況においてヤコブは、ただただ神の力にすがることをしません。神が彼と共にあることが示されたにも関わらず、最悪の状況を想定しながら極めて現実的に対処します。彼はまずエサウに使者を送ります。この使者たちの報告が7節に記されています。この報告を聞いたヤコブは非常に恐れ、思い悩みました。兄の連れていた4百人のお供が、自分たちを攻撃してくる可能性があったからです。そうする動機が、兄のエサウには十分にありました。そこでヤコブは自らの陣営を二つに分けることにします。片方が攻められても、残りの組が助かるためです。これは総倒れを防ぐ意味で、現代にも通じるリスクマネジメントの方法です。14節以降でヤコブの備えはさらに続きます。彼は持ち物の中から、エサウへの贈り物を選びます。そしてこの贈り物を任せた召し使たちを、自分よりも先に行かせます。エサウが贈り物を受け取ったあとに、自分がエサウと会うようにします。こうして自分がエサウと会う頃には、少しでも自らへのエサウの怒りが収まっているよう工夫したのでした。

 このように極めて慎重に、現代でも使えるような現実的な対処を行うヤコブの姿は注目に値します。神が共にいてくださることは、すでにヤコブに示されています。それが示されたとき、現実的な対処を神に任せて自分では何もしない、あるいは神の守りに頼りきり、備えをしないまま非現実的で危険な方法を取ってしまう。こういった誘惑が、あるのです。それらはいずれも、聖書の教える信仰的な行為ではありません。少なくとも今日のヤコブは、そうしませんでした。目の前の現実を見据えながら、極めて現実的に、なしうる備えを忠実に実行したのでした。そのうえで彼は、神の憐れみにより頼んで祈ります。それが10~13節の祈りの言葉です。現実的な備えは必要ですし、それをすることが求められています。しかしそれで物事に完全に備えることはできません。限界があります。不測の事態も起こります。それゆえにどれほど現実的な備えをしようとも、最終的なよりどころや命綱となりうるのは、主なる神を置いて他にありません。

 ここでのヤコブの祈りは、特徴的です。ヤコブは、神が確かに自らを助けてくださる根拠を挙げていきます。その根拠とは、第一に、神御自身が過去にヤコブに誓われた約束です。それが10節と13節に記されています。これらの約束が守られるならば、エサウとの再会において神が自分や家族を守ってくださるはずです。それをヤコブは期待しました。さらに11節には、神が自らを守ってくださるもう一つの根拠が挙げられています。それは神の慈しみとまことを受けるに足りない自分に与えられてきた神の恵みです。それは、一本の杖を頼りにするほかない貧しい状態でヨルダン川を渡った自分が、今や二組の陣営を持つまでになった事実に示されています。自らが足りない者である以上、これらの財産はすべて、神の恵みの結果です。彼が今直面している恐怖は、過去の自らの行為の結果です。その困難に直面している彼がもし、自分は神の慈しみとまことを受けるにふさわしい人間だと理解したらどうでしょうか。自らの持つ財産が、自らの神への行為に対する報酬ならば、身から出た錆である目の前の恐怖において神の恵みを期待することはできません。なぜなら、自らの得た財産が自らの行為の報酬である以上、自らがおびえる恐怖もまた専ら自らの行為と責任によって対処すべきものになるからです。ここにヤコブが、自らを神の御前に慈しみとまことを受けるに足りない者だと告白した意味があります。そう告白するがゆえに、今直面する恐怖においても、たとえそれが身から出た錆であったとしても、なお神の恵みが期待できるのです。神は自らの行いや自らの足りなさとは関係なく、恵みを注いてくださるお方だからです。

 わたしは神の慈しみとまことを受けるに足りない者である。このヤコブの告白は、言い換えればそれは、わたしが神の御前に罪人であるという告白でもあります。この点で、わたしたちもまたヤコブと同じです。キリストの十字架を前にしたとき、わたしたちは自らが神の慈しみとまことを受けるに値しない罪人であることを示されます。罪人であるわたしに、神はキリストの十字架の贖いのゆえに共にいてくださるのです。それでもなお、わたしたちは恐怖の中にあります。それらに現実的な備えをすることが求められています。しかし最後の頼みは、主なる神にのみあります。そして主なる神に頼ることができるのです。なぜなら神は、わたしたちのような取るに足らない罪人をキリストの十字架の恵みによって救ってくださったお方だからです。わたしたちが足りない罪人として神に祈るとき、そこには希望があるのです。自らが足りない者であることを認めるときにこそ、神の恵みを期待し、それを仰ぎ見ることができるのです。