2024年1月28日礼拝説教「落ち着いて、主の救いを見よ」

聖書箇所:出エジプト記14章5~18節

落ち着いて、主の救いを見よ

 

 本日は年間標語聖句の御言葉に聞きます。わたしたちは普段、ひたすらに行動を起こして結果を残すことが求められる社会に生きています。教会はどうでしょうか。浜松教会は昨年教会設立を果たしました。それゆえここ数年は教会においても行動することに重きが置かれる傾向が強かったかもしれません。行動は大切です。誰も行動しなれれば、教会活動はままなりません。しかし行動ばかりが求められるならば、疲れてきます。もし教会において行動ばかりに重きが置かれるならば、大切な何かを見落とすことになります。時に落ち着いて、少し立ち止まって、本当に大切なものを見ることが必要です。それが、今日の出エジプト記の御言葉につながっています。

 この箇所は、イスラエルの人々がエジプトから救い出されて間もないときのお話です。彼らは意気揚々とエジプトを出ました(8節)。しかしながら、この喜びは長続きしませんでした。彼らを去らせたエジプトの王ファラオは後悔し、軍隊や戦車を率いて彼らのあとを追います。当時の戦車は馬がけん引して動かすものでした。徒歩と馬とでは進むスピードが違います。エジプト軍はあっという間にイスラエルの人々に追いつこうとするところまできました。エジプト軍の目的は、イスラエルの人々の救いをなかったことにし、彼らを救われる前の奴隷に戻すことです。このエジプト軍を前にして、イスラエルの人々は抵抗する力を全く持っていませんでした。それゆえに、彼らの喜びは恐怖へと反転しました。そして彼らは、自らを率いていたモーセに対し抗議します。救ってくれないほうが良かったとさえ言い出す始末です。そこで神はモーセをとおして葦の海を分けるという奇跡をなされます。海の間を通らせることによって、彼らを救われたのでした。

 エジプトの圧倒的な力を前に恐怖におびえたイスラエルの人々が不信仰だったことは間違いありません。しかし、イスラエルの人々のようにならないようにしましょうという教訓が、この箇所から受け取るべきメッセージではありません。まずもって彼らがイスラエルの人々であるという点が重要です。この人々は、主を信じる人々のご先祖様です。そして主を信じる人々は、ここに書かれているご先祖様の体験を自らの体験と理解して出エジプト記を読んできました。そうであるならば、目の前のことに右往左往し、神に信頼できずに恐れるイスラエルの人々の姿は、まさに神を信じるわたしたち自身の姿です。しかしそれで終わりではありません。神御自身がエジプトと戦われ、イスラエルの人々を救い出してくださいました。同じように神は、わたしたちが恐れおののく敵とも戦ってくださるのです。そして圧倒的な力をもって、わたしたちをも救い出してくださるのです。これがこの箇所から示される一つのメッセージです。弱いわたしたちはどうしたって敵を前にして恐れます。しかし神が戦ってくださり、わたしたちを救い出してくださいます。ここまでのシナリオは、いわば決定事項であり既定路線です。

 ではこのシナリオの中で、わたしたちのすべきことはなんでしょうか。それが、13~14節にあるモーセの言葉に示されています。ここでイスラエルの人々に命じられていることは何でしょうか。神のために身を粉にして行動することではありません。反対に、何もせずただ神の奇跡を待つことでもありません。求められているのは、落ち着いて神の救いを見ることです。落ち着いてとは、直訳すると「自らを立たせて」という意味の言葉です。恐れだけにとらわれていては、神の救いを見ることができません。意識して自らを立たせ、目をあげる必要があります。

 目をあげて神の救いを見るために、今日の箇所では二つの着目点を挙げることができます。一つ目は、神の救いは御言葉にしたがってなされる、という点です。葦の海が分かれる奇跡について、神は事前にモーセにお伝えになりました。この御言葉に沿って神の救いはなされました。二つ目は、神の救いが神に従う人をとおして行われる、という点です。モーセが神の言葉に従うことをとおして、葦の海を分けるという救いの御業はなされました。神の救いは、神に従う人をとおしてなされます。神に従って地上を歩まれた主イエスキリストが、その何よりの例です。

 

 落ち着いて神の救いを見るために、わたしたちもまたこの二つの着眼点を大切にしてまいりたいのです。わたしたちもまた、御言葉に聞くことをとおして神の救いを見ます。御言葉をないがしろにして、いくら努力し行動を重ねても神の救いを見ることはできません。それと同時に、神に従う人をとおしてなされる神の救いを見ることも大切です。わたしたちの周りには、キリストに従う人々がおります。牧師、役員、兄弟姉妹。この人々が神に従うことをとおして、神の救いはなされます。これは浜松教会に限った話ではありませんが、事情によりこれまでのような奉仕や献金ができなくなったという声をよく聞くようになりました。そのような状況のときには、決して無理する必要はありません。神の民であるわたしたちに求められているのは、行動や犠牲ではありません。しかし、落ち着いて神の救いの御業を見ることは明確に求められています。自分がささげられない献金や奉仕を、御言葉に従ってささげておられる兄弟姉妹がいます。そこにこそ、神の救いはなされます。わたしたちは果たして、それらを見ることができているでしょうか。そして共に喜ぶことができているでしょうか。このことが、モーセをとおしてまさにわたしたちに求められているのです。神の救いを見ること。それをとおして恐れおののく弱いわたしたちは、世に勝利される神の救いを見るのです。その体験を、兄弟姉妹と共に喜ぶのです。そのような素晴らしい一年を、御言葉とともに、兄弟姉妹とともに、歩んでいこうではありませんか。