2023年9月3日礼拝説教「いつか目覚めて悔い改めるために」

聖書箇所:テモテへの手紙二2章22~26節

いつか目覚めて悔い改めるために

 

 直前の21節まででは、キリスト者が「金や銀の器」と「木や土の器」に例えられています。誰しも、自分はより価値の高い金や銀の器でありたいと願うでしょう。金や銀の器か木や土の器かを分けるのは、主の復活に望みを置くか否かです。教会では、主の復活は当たり前のように言われます。しかし世の中はそうではありません。それゆえに教会の中ですら、主の復活に心から希望を置くことは簡単ではありません。現にエフェソ教会の中にも、復活を否定しようと議論に終始する人々がおりました。そのような無益な議論を避け、自らを清めるようにとパウロはテモテに命じています。

 それに続く今日の箇所では、そのためになすべきことが記されています。特に、無益な議論に終始する人々にどう接するかが教えられています。わたしたちは自らが清められ、救われて終わりではありません。教会には他者との関係があります。その他者とは多くの場合、自らに都合よく行動する人々ではありません。共に主を信じて教会に集う兄弟姉妹であっても、例外ではありません。聖書をどう理解してどのように信仰生活を送るかは、同じ教会の兄弟姉妹であってもそれぞれです。例えば毎週欠かさず礼拝に出席する方から見れば、礼拝を頻繁に欠席する兄弟姉妹に対して、何かモヤモヤした思いを持つこともあるでしょう。そのような中で、どのような関係性を教会において築いていくか。それを学んでまいりたいのです。

 22節でパウロは、遠ざかることと追い求めることを命じています。そして遠ざかるべきこととして「若いころの情欲」が挙げられています。この言葉は一見すると、若気の至りのようなものが思い浮かびます。しかしパウロの意図する意味は、そこにはないでしょう。なぜならその直後に「正義と信仰と愛と平和」が追い求めるべきものとして挙げられているからです。これらに反し、またこれらを壊すような欲求。それがパウロの挙げる「若いころの情欲」の内容です。同様の内容が一テモテ6:11でも記されています。ここで避けるべきと言われている「これらのこと」とは、直前の6:10までで論じられてきたことを指しています。具体的には、正しい教えに基づかない議論から生じる争いや、満足できない思いです。特に「争い」については、今日の箇所とも共通しています。争いは、自らの正しさと相手の誤りをことさらに強調し、相手を打ち倒すことを目的としています。このような、相手を打ち倒すことと対局のところに、キリスト者の追い求めるべき「正義と信仰と愛と平和」があるのです。

 今日の箇所の「若いころの情欲」も、この視点から理解すべきです。具体的に挙げるならば、理想的ではない現状を一切許容できない過度な潔癖さ、あるいは善か悪かのゼロイチ思考を挙げることができます。自らの欠けや無知を棚上げして、自分の理想に合わない人々と徹底的に争い、否定し、排除しようとする姿勢です。皆さんも、若い頃を思い出すと思い当たる節があるのではないでしょうか。それが「若いころの情欲」です。それに終始していたのが、教会内において復活を否定しようと無知な議論に終始していた人々の姿でもあるのです。他者を否定し排除することを目的とした議論は争いのもとです。それゆえに、そのような議論は避けるべきです(23節)。

 このような避けるべき議論を前にして、主の僕としてなすべきことが24~25節に記されています。言い争うことと、優しく教え導くことの違いは、目的にあります。前者は考えの違う相手を排除することを目的としています。対して後者は、相手が悔い改めて正しい教えに戻ることを目的としています。分かりやすく言うならば、自分に反抗する人々の滅びを望むか、救いを望むかの違いです。主の僕は、後者の立場でなければなりません。なぜなら我々の主であるキリストは、自らに反抗する正しくない罪人の救いのために十字架にかかられたからです。ここに25節に記されている悔い改めの希望の根拠があります。正しくない者を悔い改めさせて真理を認識させるのは、わたしたち人間の業ではありません。それはどこまでも神の御業によります。それゆえ主の僕は、人を悔い改めさせる神の御業をあきらめて、自らに反抗する者の滅びを求めてはなりません。

 パウロは無益な議論に終始する人々を、悪魔にとらわれていると表現しています(26節)。悪魔とは、旧約聖書の「サタン」の訳語であり、サタンとは「告発する者」を意味します。誰かの弱さや欠けを指摘し、その人をキリストの救いから排除する。これがサタンの罠です。この罠に、復活を否定しようと議論し、言い争いに終始していた人々が陥っているのです。このような人々は、特別に不信仰な人々ではありません。むしろ他者よりも信仰的であろうと願うときにこそ、このような悪魔の罠に誰しも陥るのです。

 

 これとは反対にキリストは、正しくない者の悔い改めと救いを願い、十字架にかかられました。そして罪に勝利されて復活されました。これがわたしたちの寄って立つ希望です。我々もまた主の僕として、罪人を悔い改めさせて救いに導く十字架と復活の希望に立つ者でありたいのです。他者の罪や欠けをただただあげつらって、裁いて、救いから排除して、そのようにして自らの安心を確保する生き方は辛いのです。それが主の復活に希望を置くことのできない人々の生き方です。そのような辛い歩みの中にある人々が悔い改め、主の復活の希望に生きることができるように願い続けること。これが復活に希望を置く主の僕の生き方です。わたしたちもまた、自らに反抗する人々の滅びを願うことなく、ただただ悔い改めて救われることを願い続けるのです。それを実現してくださる神の御業に、主の僕は期待し続けるのです。それこそが、主の僕であるわたしたちの生き方なのです。