5月26日礼拝説教 「実によって分かる木」

                  2013年5月26日

聖書=ルカ福音書6章39-45節

実によって分かる木

 

 この個所は、主イエスのファリサイ派への痛烈な批判です。それだけでなく、やがてキリストの弟子たちにもファリサイ派と共通するものが出てくる。その危険性に対しての警告の言葉でもあります。

 先ず、ファリサイ派の問題点を三つに絞ってみます。第1は、自分たちには聖書がある。聖書の言葉、律法の細かいところまでも守ろうとした結果、文字に捕らわれ律法主義となった。第2は、人は弱く律法に示されながらも完全に守れるかというと、決して守りきれない。ファリサイ派はそれを守っていると外形を整える。律法の言葉を着物の襟に縫い込んで自分は忠実にみ言葉を蓄えようとしている。祈りの時間になると、町の辻に立って大きな声で祈りを捧げる。こんなに敬虔な祈りの生活をしているのだと人目に見せる。第3に、律法に従った生活の出来ない民衆に対しては、自分たちは律法を知り、律法に従って生きている。だから、自分たちは民の指導者だという強烈な自意識、誇り、うぬぼれが生まれた。この3点を理解して読むと主イエスの語りたいことが分かってきます。

主イエスは「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」と言われます。ここでの「盲人」とは肉体のことではありません。心の目、魂の目のことです。民衆は律法の知識が乏しい盲人だと考え、自分たちファリサイ派は盲人である民衆の導き手なのだと自認していました。これに対して、主イエスはそのようなファリサイ派も実は盲人なのだと言われるのです。聖書の本当の意味を理解していないのだ。ファリサイ派の人たちによって指導されるユダヤの人々は「盲人に導かれている盲人」のような存在だと言われているのです。

 主は言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。…」。ファリサイ派に対して「偽善者よ」と言われます。自分の目にある大きな丸太に気付かない。自分の中にある欠陥を棚に上げて、人のことをあれこれ言う。主イエスは、民族の導き手、指導者を自認する人たちに対して強烈な批判をしておられます。本当は見えていないのに見えているつもりで人を導いている。愚かだ、偽善だと言われた。

 そして、主イエスはキリストの弟子たちの中にも、ファリサイ派と共通する危険性を感じ取っておられます。この個所は表面的にはファリサイ派批判ですが、実は主御自身による弟子たちへの警告の言葉なのです。キリスト者も自分たちには聖書がある。神の真理が分かっている。だから、自分たちはいつも正しいとうぬぼれてしまう。主イエスの御言葉に耳を傾けて自己吟味していかねば、私たちもファリサイ派になる。私たちも自己吟味を欠く時、傲慢、おごり、偽りの安心となる。信仰と生活についての自己吟味なしには、キリストに従って生きることは出来ないのです。

 次に、主イエスはファリサイ派の根本的な問題を取り上げます。木とそこに稔る実、倉から出てくるものという2つのたとえで語られます。この2つのたとえは基本的に同じことを語っています。表・外側に現れたものは、内側にあるものが溢れ出て現れたものだということです。世の人たちは現れた外側だけに捕らわれて評価する。しかし、主イエスは隠れている内なるものを問題にします。外に現れているものは内側から現れてきたものだということを指摘されたのです。

 ファリサイ派の人たちの行いが偽善に満ちているのは、実はその内側の信仰から出てきているのだということなのです。聖書を間違って読んでいる。そこから間違った信仰が生じ、それが外に現れたのだ。聖書はファリサイ派のような読み方をするのではない。彼らは信仰の土台が間違っているから、悪い実しか実らせることが出来ないのだと言われているのです。キリスト教信仰は自分の行いを誇る信仰ではありません。罪の赦しの恵みを感謝する信仰です。赦されている恵みが内側から溢れてくる。それがすべての生活にわたって感謝として表に現れてくる信仰なのです。

 主イエスはマタイ福音書18章21-35節で、例え話をお語りになりました。ある王様が家来に1万タラントンという天文学的なお金を貸していました。決算の時が来たので1万タラントンを借りていた家来が連れてこられた。どうしても返済することが出来ない。家来は土下座して「どうか待ってください」と頼みます。しかし、待っても返せるはずがありません。哀願する家来を憐れんだ王様は、彼を赦し借金を帳消しにしてやった。ところが、その赦された家来が王の前を出ていくと、途中で100デナリオンを貸していた仲間に出会った。「借金を返せ」と言うが、なかなか返せない。彼は仲間を牢に入れてしまった。それを知った王様は怒ってその家来を牢に入れてしまったというお話しです。

 主イエスの例え話が意味することは、赦しの恵みを体験した者は、互いに赦し合う者とならねばならないということです。恵みが恵みとして受け取られるところで、神に対する感謝が出てくる。神の愛とキリストの贖いの恵みをいただいた者は、その愛と恵みに対する感謝の応答として人生を生きるようになるのです。主イエスが求めておられるのは、神の恵みを恵みとして受け止め、罪の赦しの恵みに感動して生きる人です。自分の罪が本当に赦されていることをいつも確認して生きる。それが自己吟味です。主イエスが求めておられることはファリサイ派のような外側を飾ることではない。キリストというよきぶどうの木に繋がれて赦しの恵みに生きることです。キリストに繋がれるならば、必ず感謝の実りを産み出すのです。