11月25日礼拝説教 「力あるみことば」

                     2012年11月25日

聖書=ルカ福音書4章31-37節

力あるみことば

 

 主イエスはカファルナウムの町を愛しガリラヤ伝道の根拠地としておられた。ここにも会堂、シナゴーグがあります。カファルナウムの会堂は主イエスの伝道の拠点で福音書に何度も登場します。ローマ軍が紀元70年にエルサレムを破壊する少し前にガリラヤ近郊も破壊した。その時にカファルナウムの会堂も破壊された。しかし破壊され朽ち果てても石造りのため、なお基本的な全体の遺構ははっきり残っています。私もイスラエルに旅行した時、立ち寄りました。「ああ、ここに主イエスはお立ちになられたのだ」と思うと熱い感動が沸き上がって来る、そういう所です。

 主イエスはナザレの会堂と同じように、カファルナウムの会堂でも安息日に教えられた。福音書記者ルカは、ナザレの会堂での出来事とカファルナウムの会堂での出来事を近接して記し、対照的に描いている。ナザレの会堂では恵みの福音が力強く語られたが受け入れられなかった。ところがカファルナウムでは大いなる奇跡のみ業を次々になされた。その1つがここに記されている出来事です。この個所から学ぶことは、なぜカファルナウムでは恵み深い御業がなされたのかということを読み解くことです。

 主イエスは安息日にカファルナウムの会堂にお入りになり、教えられました。何を教えられたのかは記されていません。基本的にはナザレの会堂で語られたことと同じでしょう。聖書が読まれ、解き明かしながら神の恵みが告げられた。主イエスの説教がどんなものだったのか、私は時折考える。雄弁だったか。言葉に魅力があったか。情熱的な語り口であったのか。いろいろな伝道者の説教を思い浮かべながら、考えてみることがある。

 主イエスの説教を聞いて人々は驚いた。「驚いた」ということでは、ナザレの会堂の人もカファルナウムの会堂の人も同じ反応でした。しかし、1つだけ違いがある。主イエスの言葉には「権威があった」と記されています。ナザレの説教では権威がなく、カファルナウムの説教では権威があったというのではありません。ここで「権威」について考えてみなければならない。権威には2つの側面があります。1つはその権威者自身の中にある力の問題です。語る者に「ある力」がなければなりません。カリスマと言っていい。2つはそれを認める人たちが必要だということです。親の権威とは、親が威張り返って成立するものではなく、先ず親自身が親としてしっかりしていなければならない。同時に何よりも子供がそれを認めるかどうかです。この2つがあるところで権威が成立するのです。

 主イエスは神から遣わされた神の御子、救い主という権威をもって語られた。同時に人々が語られた御言葉を権威あるものとして受け入れたのです。神の言葉の権威は聴く者によって受け入れられるところで、恵みの支配がもたらされるのです。キリストの権威が認められる生きた信仰と服従があるところで神の恵みの支配、神の国が来るのです。

 汚れた悪霊に取りつかれた男が大声で叫び出した。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。この男は、何かの精神的な病に捕らえられていたのか、それとも激しい発作を起こす病であったのかは分かりません。当時の人々は悪霊に取りつかれたと考えていた。今日、このような現象は医者の領域だとしてしまう。しかし、それで片が付くのではない。私たち現代人も悪霊にとりつかれていると考えざるを得ない。おとなしかった生徒が突然、怒り狂って先生を刃物で刺す。先生も生徒を殴る。先生が生徒にいたずらする。白昼、路上で若者が無関係な人たちを殺傷する。是非善悪を十分に承知しているはずの警察や検察の幹部が身内の事件をもみ消す。

 大事件にはならないけれど、人の心の奥底に憎しみや怒り、恨みが積もりに積もっている。今の時代全体が悪霊に取りつかれていると言ってよいのではないか。この男に取りついている悪霊は悪霊としての敏感さを持っている。聖なる神の人がここにいる、私は滅ぼされてしまう、私にかまわないでくれ、と言う悪霊の叫びです。キリストが臨在される礼拝では、このような心の叫びが出てくるのです。聖なる神のみ前で人の心が露わにされて痛みを覚えるのです。礼拝は、ただ感謝と言うだけのことではありません。罪に病んだ私たちの心が痛みを覚える時でもあります。

 主イエスは「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになります。主イエスはみ言葉で悪霊は追放し、この男を守り、いやしてくださった。「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは』」。カファルナウムの礼拝においてキリストの言葉が勝利したのです。ここに神の恵みの支配、神の国が来ているのです。悪霊に取りつかれ魂が病んでいた人が、悪霊を追放され、いやされ、健やかにされ、神との交わりに回復されたのです。礼拝とは、このような神の恵みの言葉が語られ、御言葉の力によって私たちが悪霊から解放されて、いやされ、神との交わりが回復される時なのです。

 主イエスが力ある働きをすることが出来たのはなぜか。カファルナウムの会堂では、なぜ力を発揮されたのか。会堂に集う人たちの信仰が鍵を握っているのです。主イエスの語られる言葉に権威と力とを見ることが出来た。礼拝が本当に力ある礼拝、語られる御言葉が本当に力をふるうことが出来るのは、そこで神の言葉を聴こうとしている会衆がいることです。集う人たちが神への畏れを持ち、聞いて信じる信仰の姿勢を持つことです。神の御言葉の力はそれ自体確かに力を持つ。しかし本当に力ある働きをするのは、神を畏れる思いが群れの中にあるところでなのです。